テーマ | 総括 |
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No. | 904 |
タイトル | 美人/アイドル |
解説 | 美しい顔とはどんな条件が必要か、美しい人体とはどんな数字的バランスを持っていなければならないか、といった意見、研究が、古代ギリシャの時代から現代まで数多く存在していることはよく知られているし、この時代の新聞からも関連記事はいくつか拾うことができる (→年表〈現況〉1913年4月 「美人くらべ」読売新聞 1913/4/24: 5;→年表〈現況〉1922年1月「世界的女性美の標準」【婦女界】1922/1月;→年表〈現況〉1934年7月 「理想の美女」読売新聞 1934/7/25: 9;→年表〈現況〉1934年12月 「美人鑑定の採点法」朝日新聞 1934/12/28: 5;→年表〈現況〉1935年12月 「理想型の女のからだ」読売新聞 1935/12/20: 9;→年表〈現況〉1941年1月 「斯くあれ興亜の美人」都新聞 1941/1/21: 9)。 これらのうち、1941(昭和16)年の大政翼賛会国民生活指導部の提案は、それ以前の一般的で、やや抽象的ともいえる欧米の美女像とはこと変わり、「人口増強」「高度国防国家建設」というその時代の日本の国策に沿った独自の美人観であり、「顔色つやつや日焼けを自慢」「大きな腰骨こそ頼もし」「食べよ、肥れよ、伸びよ」などという、旧石器時代のヴィーナスを連想しそうなスローガンも含んでいた。産めよ殖やせよの時代だったから、若い女性へのそういう国家的期待という前提の上に、女性美がイメージされていたのだ。 このような国策型美女観が、特定のバイアスにもとづくものとして、純粋に美しい人を考えるうえでは不適切、と言いきってしまうことはできない。なぜなら、とりわけ身装の観点から美しい人を考えるとき、なんのバイアスも持たないということはおそらくあり得ないためだ。 美しい人を考えるうえで、私たちは自分が女性であり、男性であるという決定的なバイアスから自由にはなれない。空の星を見ても、野の花を見ても、その美しさの基準は男と女とでは同じではないだろう。しかし異性の美を感じるときの男女の差はそれとは本質的にちがう。性に関係する魅力のありかたは、性的衝動という具体的な要求と切り離せないからだ。 スカート丈が短くて、若い女性が太ももむき出しのスタイルのことがある。男が女の脚に目を惹かれるのは、それが女の脚だからであり、恰好よくほっそりしている――などというのはそれは別の価値で、おまけのようなものだ。どんなに恰好がよくても、健全な男は同性の毛ずねには関心を持たない。だから女性が、私は脚の恰好が悪いからミニスカートは穿けない、と悲観する必要もない。もっとも、女の脚だからといって、すべて同等のフェロモンを持っているというわけではないが。 女の美しさが、言いかえればセックスアピールがとりわけ言い立てられてきたのは、人類社会においてこれまで、女の存在理由がもっぱらそのセックスアピールにあったためだ。 一方、暴力的な時代には、男の存在理由はもっぱら筋肉力だった。現代でも暴力的世界では若き日のアーノルド・シュワルツェネッガーや、派手な向こう傷を持った「男」が立役者だ。しかし社会が複雑になると、筋肉力だけでは生きてゆけなくなる。筋肉も大事だが、高性能のサイレンサーのほうがよりものをいい、上に載っている頭――知能のほうが生きてゆくうえでの力になる。野人コナン・ザ・グレートではなくジェームズ・ボンドの時代だ。 むかしに比べると、現代は丸顔が受けいれられるようになった、というような次元よりもう少し高い視野から観察したとき、時代が20世紀に入るころから、知性と、才能に棹さした生き方とが、女性の魅力に加わるようになったことがわかる。19世紀――明治時代の評判美人といえば、萬龍とか、洗い髪のお妻とか、芸者以外の名前の挙がったためしがない。それに比べて大正三美人といわれたうちのふたり、九条武子(1887~1928)と柳原白蓮(1885~1967)とは歌人であり、もう一人を林(日向)きむ子(1884~1967)とすれば、これまた歌人だった。また大阪の社交界を代表した佳人高安やす子も、歌を詠み、油絵も素人離れした才人であった。 柳原白蓮は菊池寛の新聞小説「真珠夫人」(1920)、瑠璃子のモデルといわれる。この女性の顔かたちは、美しいといっても、昔からある日本婦人の美しさではなかった。それは日本の近代文明が初めて生みだしたような美しさと、表情を持っていた。明治時代の美人のように、個性のない、人形のような美しさではなかった。その眸は、飽くまでも、理知に輝いていた。顔全体には、爛熟した文明の婦人に特有な、知的な輝きがあった。菊池寛はとりわけ作品のなかで、「気高い美しさ」に執着し、そういう精神的な高さを感じさせる女性美を模索していたようにみえる。もっとも菊池寛のあこがれとは裏腹に、現代においてさえ多くの女性の、自己実現の価値観は男に比べると単純で、セックスアピールの目盛しか刻んでいないような人もいなくはない。しかし男が暴力で評価された時代が人類史の90パーセントを占めてきたのだから、女が男を刺激し、誘惑する能力で評価されている時代がもう1、2パーセントくらい余計つづいても、別に恥じるには及ばないだろう。 一方、いい男とはどんな男だろう。1910年代(ほぼ明治末から大正の初頭)に【遊楽画報】という雑誌があった。吉原、洲崎など、廓(くるわ)の遊客を主な読者としていためずらしい雑誌だった。巻頭のグラビアには毎号、評判の花魁(おいらん)の上半身の写真が掲載されていて、細見(江戸時代の廓案内)の明治版の役割もしていたのじゃないかと疑われるが、かつての吉原細見とちがうのは、名の聞こえた遊客の半身像も掲載していたことだ。 ここに写真を出されるような客は、もちろん金離れのいい廓の上客だろうが、それ以上に花魁誰それとのはでな浮き名を流していることが必須の条件だ。しかしいま同性の観察者たちが彼らのすがたを見ると、それが男を見る目の肥えた廓の女の「いい人」であることの理由がわからない。現代人はその時代にはまだ残されていた、きものすがたの男の色気には盲目になったのだろうか。 明治のひとつ前の時代は、時代劇映画などで見ると侍や渡世人がやたらに刀を振り回しているようだが、実際はもっと平穏な時代だった。だからこそ和服には、いい男――男の色気、というものがさまざま伝えられている。 建仁寺垣の向こうに、水浅黄の手拭いで頬被りをし、藍微塵のきものに茶献上の帯、尻を高くはしょり、雨上がりで羽織を小さく畳んで懐に入れ、腰のところに薄い雪駄を挟んで、腕組みをして立つ(……)むかしの錦絵にあるような姿。 これは落語の「お若伊之助」のなかで、横山町の大店の一人娘、お若とのあいだを裂かれた一中節の師匠伊之助が、人目を忍んで恋する人のもとを訪ねる場面、六代目圓生の描写。伊之助は26歳、「よすぎるほどのいい男」という。 顔だちのいい、色気のある、女をよろこばせることに長けた男は歌舞伎では二枚目といい、つっころばし、などという言い方もあった。明治以後になると美貌の二枚目俳優は、歌舞伎でも映画でも、前の時代ほどの熱狂的人気を持たなくなる。顔のきれいさがかえって、顔か――などと、不当に貶められることさえある時代になった。 (大丸 弘) |