テーマ | 総括 |
---|---|
No. | 903 |
タイトル | 高尚な世界 |
解説 | 人の好みやふるまいの評価基準として、高尚という言い方がよく使われたのは明治時代だった。御婦人方の高尚なご趣味に――、といった化粧品の宣伝は毎日の新聞でもごく当たり前に見ることができた。高尚は上品とほぼおなじ意味に使われて、実際、高尚の文字に「じょうひん」、とルビを振っている例もある。高等ということばを同じ意味に使うこともあったが、これは例の、「粋でこうと(高等)で人柄で――」以外にはそれほどお目にかからないようだ。 1910(明治43)年を過ぎるころから、新聞広告のコピーでも、高尚の文字はだんだんと少なくなる。使われすぎて、いくぶん冗談めいた語感が出てきたせいもあるだろう。上品の方は揶揄的に使うときには、お上品、と「お」の字をつけて区別したが、お高尚という言いかたはあまり聞かない。 本来、高尚ということばは、単に上品な趣味や外見という以上に、より人間性そのものを云々することばとして用いられていた。 人の心を高尚に進めて兎に角に肉体以上の点に在らしむるは、文明社会の為に至極大切なることなり、子弟の教育も其の目的は此の辺に在ることにして、(……)学校を離れて広く天下の男女を導き之を文明の門に案内して気品を高くせしめんとするには、単に教場の法に依るべからず、近く日常身辺の物に就いて諄々懇々人の聞かんと欲する所を語り、其の疑う所を解き、近きより遠きに及び浅きより深きに入るときは、匹夫匹婦をして自然に高尚の思想を抱かしむるの機会あるべし(……)。 福沢はここで、人が単に着ること喰うことの日常の慾にあくせくするのでなく、より広い知識と視野によって可能となる、教育の豊かな可能性を説いている。とりわけ彼がここで使った「心を肉体以上の点に在らしむる」という表現は、唯物主義者という評価もある福沢だけにおもしろい。 高尚という精神は、もののあり方に無関係ではないが、もの自体に囚われすぎるものではない。そういう意味では外見の美醜も、人の品格の決め手にはならない。福沢とほぼ同じ時期に、より古いタイプの教育者であった大庭青楓(おおばせいふう)は次のようにいっている。 外形の美なる者にして、行いの下賎なるものあり、野卑なる者あり、なんぞ外形の美のみを見て、直ちに高尚なる品格を有せると云うを得んや。故に高尚なる品格は、まず吾人の内心をして高尚にせざるべからず。(……)高尚なる品格をつくるためには、行為と儀容と言語との高尚なるを勉めざるべからず。 概していうなら、明治から大正・昭和にかけては、世の中のひと一般の趣味は、下賎、野卑なものから、高尚の方向へとむかっていた、とされている。 近年は一般に流行の嗜好が向上して、高尚という方に進んで参りまして、色合いにしろ、模様にしろ、縞柄にしろ、一体に地味に地味にとなって、派手なものは排斥されて居るという有様でございます。 フランス人画家ジョルジュ・ビゴー(BIGOT, GEORGES 1860~1927)の描いた明治時代の日本人は、われわれにあまり愉快な印象を与えない。政府の要職にある人を描いても例外ではないが、とりわけ一般の人民は人間というより猿のように描かれていて、しかも猿にはない下品さが露呈されている。われわれはそれを、この不遇な画家の偏見によるものと考えたいのだが、しかしその時代の同朋に対して同じような見方をしている日本人がいる。 彼らの描いた日本人、ことに日本の女の挿絵が、容貌から姿態風俗まで蛮人を見るようで、我々同朋は一見侮辱を感ずるが、明治十年前後の女の写真を見ると、外国人の描いた絵ほど醜悪でなくとも、ドコか似通っている。写真だからウソではないので、日本人の我々が見てさえそう感じるのだから、開国当時渡来した外国人の眼に台湾の生蛮人と同様に映ったのは決して無理ではない。(……)当時の顕官の夫人、後に何爵婦人と仰がれた貴婦人たちでも、当時の写真を見ると風俗が如何にも下司である。尤も当時の顕官の夫人の多くはいかがわしい出身であるかも知れぬが、それよりは女の一般の教養が卑くて気品に欠けているのだ。一言すれば、明治十年前後の女の写真は文化史の材料というよりは人類学の挿図である。どう贔屓目に見ても暹羅(しゃむろ)や安南(あんなん)以下の未開国の風俗である。 世の中の趣味が、上品なものを求めるようになった理由のひとつが、教育の向上であることは明らかだ。がっくりと根の下がった髷に襟をぐっと抜いて、襟白粉(おしろい)を背中までべっとりと塗るような趣味は、下賎とか野卑とかいわれがちな下町風で、若い娘が長唄や清元のお稽古屋でなく、袴を穿いて女学校に通うようになると、自然に廃れていったのだ。 1910年代(ほぼ大正前半期)に東京女子高等師範の校長だった中川謙二郎は、「女の袴というものは元来が貴族的なものであって、百姓の娘などが学校へ行くからと云って、特に袴を買い求めて穿くなどはチト不似合いの観がなかろうか」と、女高師の校長の立場としてはやや差別的発言をしている。しかしこの中川にかぎらず、この時代の一部の老人の頭には、女の袴といえば、堂上の官女たちの、臈長けた、高貴な袴姿の印象があったかもしれない。 上品ということばとそう区別なく使われたとしても、明治時代に高尚ということばのニュアンスには、より精神的な意味が込められていた。1911(明治44)年に連隊入営者の心得として編集された『入営者宝典』には、入営前の心得としては先ず第一に「高尚なる精神」を持つことが必要であるとし、そのためには品行を慎み、天晴れ、天皇陛下の股肱たるに背かぬように心がけなければならぬ、としている。 また、この時代の代表的な女子教育者であった棚橋絢子は、『現代婦人訓』(1912)のなかで、「高尚なる趣味の生活」として、趣味はまったくその人の品性の働きであるから、品性を高めることがなにより肝要であり、これは修養によらねばなりませぬ、といい、また自分の生活する周囲の空気の清潔高尚であること、見るもの聞くもの、交わる所の人々などすべてが、上品高雅でなければなりません、と断じている。 棚橋は夫が漢学者であったし、1939(昭和14)年に101歳で亡くなるまでの長い生涯に多くの華族の子弟を個人的に指導して、この時代の女子教育界に隠れた、しかし大きな影響力を持っていた女性だった。この棚橋の考え方の基底には、高尚とは結局その人柄の問題であり、その人柄は生活している環境から生みだされるもの、という確信があるようだ。 高尚な人、はもちろん数多いが、その人たちの住んでいる高尚な世界、というものがこの世の中にはあって、第二次大戦前には、私たち庶民がたまにその断片的な消息を洩れ知ることのできる、皇族方や、華族さんを中心とした上流婦人たちの住んでいる世界が、それらしかった。 それだけに、「堕ちた天使」の話題は大きかった。そのなかでもっとも世間を騒がせたのが1921(大正10)年に起きた、白蓮柳原燁子(1885~1967)の事件だったろう(→年表〈事件〉1921年10月 「柳原燁子、夫への絶縁状を公開」)。しかしその非難と同情の喧しいなかで、庶民の女性たちは燁子の臈長けた美貌を新聞で見て、やっぱり華族さんのお姫様はちがう、と溜息をついていた。 (大丸 弘) |