| テーマ | 総括 |
|---|---|
| No. | 902 |
| タイトル | 身だしなみの周辺 |
| 解説 | 嗜(たしな)む、ということばはやや死語になりかかっている。仲人さんに、お嬢様なにかお稽古事は、と尋ねられた母親が、お茶とお琴を少々嗜んでおります、と答えると今日ではいくぶん仰々しい。お茶とお琴をやっております、とでもいうのが普通の答え方だろう。この場合の嗜むは、身につけるというほどの意味になる。 八代目桂文楽の出しものに、「夢の酒」というのがあった。噺の冒頭、日本橋辺りの商家の奥の間で、若夫婦が痴話喧嘩をしている。店にいてそれを聞きつけた父親がふたりに小言をいう。「夜でもあろうか昼日中、伜も伜だがお花もそうだ、あきんどの家にあるまじき、すこしたしなんだらいいだろう!」。この場合の「たしなむ」はやや意味がちがい、節制の意味になる。 『大日本国語辞典』(小学館)では、「たしなむ」を(1)芸事などに親しむ、(2)日頃の心がけ、(3)節制、(4)身を飾ること――としている。だから、「身」という接頭語をつけて身だしなみとした場合、語感としては、日常の心がけとして、だれもが知っていなければならない、「節度のある装い」と理解してよいだろう。 「節度のある装い」は、前の時代以降明治期を通じて、教訓書のなかでくりかえされた基本的な教えだった。英米の多くのエチケット・ブック(etiquette book)のなかでいわれているモデスト(modest)、あるいはモデスティック(modestic)という美徳も、ほぼ共通する理念のものだろう。そしてその節度ということの内容は、わが国でも欧米においても社会的身分の観念と深く関わっていた。 明治時代、人々の身分の自覚が次第に薄れてゆく、そんな世間の傾向をしきりに嘆いているのは、礼法書の著者ばかりではない。節度ある装いの、その節度の基準は、つねにその人の身分にほかならない。四民平等の建前の世の中を知らない人はないのだから、多くの著作者のいう身分とは、経済的に分不相応な贅沢を戒めることが中心だったが、それとあわせて芸者が芸者の身分を忘れて素人の奥様めいた恰好をしたり、逆によくあることだが奥様が芸者を真似たり、奥様と女中の区別がつきにくくなった、といった慨嘆もしきりだった。 さて身だしなみについても、昔は劃然(ちゃん)と決まった所がありまして、武士の妻は斯う、娘は斯う、商人の家内は斯うと云う様になって居ました。それで一寸見ても、そのひとの身柄が解ったもので御座いますが、今日にては最早その様な階級的なことは破れたとともに、婦人の装飾の仕方も思い思いになりました。したがって一寸見ただけでは、女学生やら、女工やら、娘だか妻だか分からぬ様になって仕舞いました。勿論昔のように士農工商などという階級に分かつなどは、あまりに極端でいけますまいが、現今ほど混雑している風俗は、殆どわが国が一番甚だしいと云われて居ります。此の様な訳で、今日の婦人が身だしなみする標準は、全く思い思いの有様で御座います。 宮仕えの経験もある下田歌子は、明治時代後半期としてもやや保守的な立場の教育者だった。彼女は新しい時代の身だしなみの基準、彼女のことばでいえば標準を理解するためにも、婦人は男子に劣らずまず常識を身につけることが必要である、という。 常識ということばは、江戸時代にもややちがった意味では使われていたらしいが、英語のコモン・センス(common sense)の翻訳語として盛んに用いられだしたのは、1880年代(ほぼ明治10年代)からだった。人がいつ、何を、どのように身につけて装うか――、服装のもっとも基準となるノウハウも、新時代の人間の常識のひとつとして、いろいろな刊行物中で取り上げられている。 そのほとんどすべては、通俗礼法書、作法書、女訓書、あるいは現代のいわゆる実用書といわれる刊行物のなかの数章においてだった。百科事典の袖珍版の役目を持ち、日常生活万般にわたるハウツー書でもある刊行物としては、日用百科、家庭百科、実用百科という名称をつけたものがもっとも多く、なになに宝典、なになに宝鑑、あるいは重宝、便利、必携、節用、などということばをどこかにつけた本も多い。 「常識」について、明治時代の人のなかには、常識を一般人のごくあたりまえの常識と、より専門的な学問的常識とに区別するとか、あるいは職業や専門ごとにそれぞれの世界の常識がある、といった理解の仕方もあったが、しかしもっとも普通の解釈は、一般の人がだれでも知っているごくあたりまえの知識、だろう。 男子は男子らしき縞柄を着し、大人は大人らしき縞柄を着し、小児は小児らしき縞柄を着し、婦人は婦人らしき縞柄を着するは何人も知る所なり。此のらしきということは此れ亦漠然たることの様なれども、而も各人皆相一致するを見る、此の一致のある所は、即ち常識の存在を表徴するに足る。 もっとも、明治期の日用百科宝典のたぐいには、男が縞物を着て外出する場合、人妻が小紋の裾模様を着る場合の説明などはごく簡略で、ましてそれが礼装の場合であっても、きものの着方や帯締めについての解説などにはまずお目にかかれない。ふだんのきものの着方やお太鼓の結び方を「学ぶ」女性が出てくるのは、1920年代(大正後半期)に入ってからのことだ。 明治の女性にとってのきものや帯は、本を読んで学ぶ常識ではなく、箸の持ち方のように、見よう見真似で身につける習性の部類だった。人は物心のつかない年頃にも、親から箸の持ちかた、ボタンの掛け方などを教えられ、あるいは人のするのを見て覚える。子どもが子どもらしい縞柄を愛し、女性が女性らしい縞柄を選ぶのは、そんな擦りこみの結果であり、社会的動物としての人間の、本能的同化作用のあらわれだ。重要なことは、その同化作用は幼児期で終わるものではなく、感受性と環境の個人的なちがいはあっても、生涯を通じて、おそらく老年期に入っても終わらないことだ。 身だしなみ――節度のある装いの基が、社会的経済的な身分の観念と切り離せなかった明治・大正期に対して、昭和に入ると、華美すぎる装い批判のスタンスがちがってくる。 1929(昭和4)年のジャーナリストは、「風俗の進化か頽廃か 街上の風景を見よ」として次のようにいっている。 一般子女の服装について観察するとき(……)そこに俗悪の甚だしきを見るのみで、たとい、優美とか閑雅とかいうことは望み得られないにしても、今少しく穏健着実の風もがなと思われるのに、(……)むやみにけばけばしく、いたずらに紅粉の匂いをさえ街上にただよわせるのを見れば、これが果たして、進化とか進歩とかいい得るであろうかを疑わざるを得ない。(……)それが多くは、良家の子女であるという事実を見ては、(……)ただ眉をひそめるの外はないのである。 この時代の化粧は、前代風の白粉(おしろい)の厚塗りがまだ支配的だった。むしろ良家の子女の身だしなみには、そういう厚化粧が従順で、女らしい娘とほめられさえした。身につけるものについていえば、舶来品ばかりでなく、国産商品の品質向上と多様化が、女性たちの目を奪い、消費意欲を刺激していた。それを支えていたのは、欧州大戦以後の全体としての国富の増大であり、その延長としての大都市居住者の物的生活と、生活意識に生じたゆとりであったろう。 批判者は、「けばけばしき衣服の好みや、紛々たる紅粉の匂いをただよわすところは、良家の子女も、売笑婦と殆ど撰ぶところを見ないのである」といい、このことだけが批判の論点になっている。批判者のくりかえしていう「売笑婦」とは、具体的には芸者を指すのだろうが、1930年代(昭和戦前期)の芸者が和装美の頂点に近づいたとは、その道に通じた人の断定するところだった(鏑木清方「時粧風俗 歌妓三態」『鏑木清方文集 第六巻』1935)。 あこがれのアイドルが、それが芸者であれ、映画女優であれ、芸術家であれ、さまざまなかたちで身近であるとしたら、それが装いの、ときには生き方の、具体的な基準にならないのはむしろ不自然だろう。批判者は売笑婦という古風な蔑称をくりかえすことで、論点を不明確で力のないものにしている。 (大丸 弘) |