近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 総括
No. 901
タイトル 年齢観
解説

第二次大戦にいたる近代80年のあいだに、日本人の平均寿命はそれほど大きく変わっていない。明治時代の数字は不確かだが、1890年代(ほぼ明治20年代)で男性42.80歳、女性44.30歳と概算されている。

敗戦後の1947(昭和22)年の国勢調査では男性が50歳強、女性が52歳弱。その間、1920年代前半には、明治期の数値をわずかだが下まわっていた。日本人の平均寿命が伸びたのは戦後1950年代(ほぼ昭和20年代)の高度成長期以後のこと。

年齢観はその時代の、およその寿命が背景にあるだろう。織田信長が言ったという「人生五十年」という認識は、その後350年間、太平洋戦争時まではほぼ正確だった。だから50歳を超えれば老人とみなされるのは仕方がない。50歳で死んだ松尾芭蕉は翁と呼ばれている。もっとも芭蕉の場合は中国風の尊称だが、それにしても、40代の男を翁と称するのは現代人にとってはかなり違和感がある。そんな古い例でなくても、芥川龍之介は書斎の夏目漱石を「獅子のような老人」と書いているが、漱石も50歳を待たずに死んでいる。

からだの老化は人によってちがい、ことに年をとるほど個人差が大きくなるから、何歳からが老人で、何歳くらいからが中年か、といった基準を立てるのはむずかしい。しかし法律や行政の世界ではどうしてもそれが必要な場合がある。

わが国では民法第4条によって満20歳を成年、つまり大人になる年としている。国が成年を法律で規定するのは選挙権や徴兵との関係が大きい。また家督相続や婚姻の資格ともからむ。明治民法やそれ以前のわが国の習慣では元服によって一人前の男とみなされ、家督相続の資格を得た。しかし元服の年齢は当人や家の都合次第でマチマチだったうえ、早い例では5、6歳などというのもあるから、まったく形式的な通過儀礼になっている。

一方、女性の元服とは、江戸時代になると結婚して眉を落とし、歯を染め、髪を丸髷にすることを意味するようになっている。若妻のなかには夫や姑の好みで、歯は染めても眉はそのままにし、髷も当分は高髷のままにしている人もあったらしく、「半元服」ということばをよく目にする。江戸時代、女性の結婚年齢はだいたいは15、6歳から20歳までだったから、女性のほうは元服と成人、そして結婚年齢がほぼ一致していたことになる。

このことと関連して思いだされるのは娼妓の年齢制限だ。吉原の花魁(おいらん)など、娼妓は1873(明治6)年以降の娼妓規則等によって、18歳以上と定められた。けれども貸座敷組合は、民法で婚姻適齢を男18歳、女16歳以上としているのだからといって、娼妓免許の年齢を16歳に引き下げることを要求しつづけた。これは遊客の需要に応えるためでもあった。概して年配者は若い子を好んだという。

明治民法では、成年ではなく丁年といい、丁年はやはり20歳だった。しかし20歳以下であっても結婚していれば大人とみなされる。また、この時代には選挙権との関係もない。明治時代には一般庶民には選挙権はなく、1928(昭和3)年の普通選挙実施以後でも選挙権は25歳以上の成人男子だけだった。また家督相続に年齢は関係せず、極端にいえば胎児でも相続権があったから、丁年は単に、相続に当たって後見人を必要としない、ということだった。また高専、大学生も丁年以上とみなされ、喫煙が黙認されたようだ。

未丁年者の喫煙は1900(明治33)年4月より法律で禁止された(→年表〈事件〉1900年3月 「未成年者喫煙禁止法公布」【法律】第33号 1900/3/6)。それに対して、この年の娼妓3,020余名中680余名が未丁年だった新吉原の楼主たちは、吸いつけ煙草の風習を盾に、当局に例外措置を請願したが、かえって浅草警察署から説諭された。ただし煙草盆等は稼業上必要な装飾品とみて、従前どおり置くことを認められている(→年表〈現況〉1900年4月 「未丁年者の喫煙禁止」読売新聞 1900/ 4/2: 3)。

江戸時代には、男は梅毒の症状のひとつである横根(よこね)の痛みを経験するのと、伊勢参りをするのとで一人前、といったそうだが、 第二次大戦前、男性が大人になったことを強く意識させられたのは徴兵検査だった。徴兵検査は男子国民の義務で、体力について甲、乙、丙、丁の格付けがおこなわれた。そして丙種以外は入営して、1年ほどの軍事教練を受けた。短期でもこの入営生活をした者としない者とでは、姿勢も顔つきもちがう、などといわれた。徴兵検査の検査場では越中褌(ふんどし)だけを身につけ、パンツ、猿股のたぐいは認められなかった。性病検査ではそれも脱がされた。

明治時代はたいていの男の子も女の子も短いきものを着ているだけで、その下はすっぽんぽんだから、年頃になると初めて褌やお腰を締め、大人になったしるしとする。帯祝いとか褌祝いとかといって祝う地方もあったようだ。明治以降は褌の経験のない男性も多くなって、徴兵検査やその後の軍隊生活で初めて褌の味を知った人もあった。もっとも海水浴では、六尺褌を愛用する男の子は結構いて、それは幼い男の自覚に役立ったろう。

肉体的な大人のしるしとしては女性の場合は初潮がある。初潮に赤のご飯を炊く習慣はわりあい広くあった。はじめて男性と交わりをもつことを破瓜(はか)といった。破瓜が単に、女が嫁にゆく標準の年の16歳を意味することもある。明治の小説作家の、「齢(よわい)も破瓜に近づきぬれば」などという文章で気をまわしてはならない。瓜という字を二つに割ると八と八になる、というだけのことだ。

男性が初めて女性と交わりを持つことを筆下ろしという。破瓜も筆下ろしも別にお祝いはしないだろうが、黒澤明の《七人の侍》(1954)のなかでは、若侍の勝四郎が初めて村娘のお志乃と寝た次の朝、志村喬演じる勘兵衛が「勝四郎、今日は存分に働けよ。お前も夕べからもう大人だ」とからかっている。

江戸時代はとりわけ女性に対する、身分をからめての呼び方が厄介だった。つまり人妻がすべて奥様でもおかみさんでもないのだ。その面倒さは開化後の短い期間でほぼ消えたようだが、新造、年増、という言いかたは東京下町では大正期あたりまで残っている。年増という女の年齢は『大日本国語辞典』(小学館)では、娘盛りを過ぎてやや年をとった女性、としている。30を少し過ぎたくらいが大年増、そのあいだが中年増。

年増向き 年増向きといえば、余程年老いたる様聞こゆれど、女は盛りの三十前後、酸いも甘いも噛み分けたる、当世奥様方の着附は、ざっと左の如きものなるべし。
(→年表〈現況〉1902年4月 「流行二枚袷(中)」読売新聞 1902/4/30: 5)

一方、新造にははっきりとちがうふたつの意味があって、ひとつは若い人妻を意味し、もうひとつは未婚の女性を指すから、こちらは娘と同義語だ。これは江戸方言らしいが、なんでこんな矛盾が生じたのだろう。

大年増を過ぎて40がらみになると中婆さんといわれ、50になれば立派なお婆さんとされる。1913(大正2)年の[朝日新聞]に、「婆芸者の自殺未遂」という雑報記事が載った(→年表〈現況〉1913年1月 「婆芸者の自殺未遂」朝日新聞 1913/1/29: 5)。東京芝佐久間町の家の2階で、白鞘の短刀で喉を突き、自殺を企てたのは、元日本橋の芸者お玉(36歳)。この世界ではとりわけ早く婆扱いされるのだが、そうとばかりはいえず、こんな記事もある。

本所三笠町の金田某の妻おはまは、早四十近き中婆にて、八年になる竹次郎という子も有り乍ら余程の浮気者にて(……)。
(「よほどの浮気者」東京曙新聞 1880/3/13: 3)

また戦前には、厄年を気にする人が少なくなかった。今年は年回りが悪いから、といったセリフもよく聞かれた。厄年は男が25歳、42歳、61歳、女が19歳、33歳、37歳で、男の42、女の33を大厄といった。その前後の年を含めた3年は厄除けをしなければいけないというので、各地の厄神さんが繁昌した。

(大丸 弘)