| テーマ | 民族と民俗 |
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| No. | 807 |
| タイトル | 大阪 |
| 解説 | 東京の大きな特色は、わかりきったことながら、政治経済の中枢都市だということだ。政治、行政、司法等の中央官庁が多いのは当然だが、それに付随する機関――教育、研究、情報の組織、大企業の本社等、トップ官僚やエリートビジネスマンが、この都市に集中している。かつての江戸は江戸城を囲んで武家屋敷が形成され、武士の町であった。お城勤めの武士の正装が裃だったのに対し、フロックコート、モーニング、もしくは背広の三つ揃えという、近代の裃の普及のトップを切ったのが東京だったのは自然なこと。 1900年代(ほぼ明治30年代)になったばかりの時期に、つぎのような観察がある。 大阪は和服の都会で洋服の都会ではない。(……)神戸の町を通ると洋服先生は随所に散見して、一見開港場たる感を起こすが、大阪となると、洋服姿の通行人を見受けること頗る寥々である。 開化のあと、東京に権力と富の集中がはかられ、東京市中に居住することを義務づけられた華族たちと、富裕層を中心とした上流社会が形成された。上流社会の範囲をいくぶん拡大すれば、そのなかや、その周辺にいる人々の多くは知的エリートたちでもあり、よい趣味や、視野の広い感性の持ち主となる可能性があった。このような知的エリートたちの交流、おたがいの刺激から生まれる新しい美的価値観、ニューヨークがもち、ロンドンがもち、パリがもっている可能性、それは日本の場合、東京以外の場所では期待しにくい、とさえ言えただろう。 その知的エリートの裾野を形成していたのは学生たちだ。東京には高等教育機関が集中し、1900年代(ほぼ明治30年代)には高専、大学の在学者が約2万といわれた。やや誇張していえば、武士の街が、学生の街に代わったといえる。麹町、牛込辺は学生下宿が集中し、神田はよく知られているように「肩で風切る学生さん」の街になった。 一方、大阪はどうかといえば、高等教育機関の少ないことの象徴は、大阪に国立大学の設立されたのが京都にも、仙台にも遅れて、全国8番目、1931(昭和6)年だったことだ。阪大の沿革史作成者は、緒方洪庵の適塾をこれに結びつけようとしているようだが、少々むりのようだ。 また、大阪に公立図書館のできたのが住友家の寄付による府立図書館の1904(明治37)年で、それまでは日本第二の都市に一軒の図書館もなかった。市立図書館に関しては1921(大正10)年以後、各区の分館がまず建てられたあと、本館の開館したのは第二次大戦後の1952(昭和27)年。 1895(明治28)年4月に刊行されたある資料では、東京にあって大阪にないものを18件列挙していて、そのなかにはこんなものもあげられている。 華族 大臣 博士 瓦斯燈 眼鏡橋(……) この時期の、この観察をみると、要は関西が文明開化のスピードにおいて、東京とはかなりのひらきがあった、ということに尽きる。大阪の風習といわれるものの多くは、東京人にとってはすでに過去のものになった、前時代の習慣にすぎないものが多い。 たとえばそのひとつ、1905(明治38)年8月の【風俗画報】には、大阪府西成郡伝法村の風習が紹介されている。それは夏のあいだは、男も女も褌(ふんどし)ひとつで過ごすという、賎民たちについての嘆きだった。この3年前に第5回勧業博覧会が大阪で催されたとき、日本各地からの見物客、とりわけ外国人を迎える大阪人の風俗に、鶴原大阪市長が同様の懸念を表明する、ということもあった。 大阪の風俗如何と云うに我々日本人すら眉を顰むること少なからず(……)第一は婦人の立小便なり、(……)つぎに婦人の裸体なり、こは往来にては見受けざれども夏日舟に乗りて川堀を下れば両岸の人家、婦人の大肌を脱ぎ甚だしきは湯巻き一枚にて或いは眠り或いは横たわり或いは立ちて働く者を認むべし、殊に博覧会場付近の貧民窟に至りてはその醜態いよいよ甚だしく、盛夏の日には湯巻き一枚にて茶褐色の乳房を子供に含ます者、年若き婦人の湯巻の上を前垂れにて覆い、或いは肌に手拭いを当て働くなどは普通の事にして怪しむものなし。斯かる情態を外人に見せしめば彼等は「日本野蛮あります」と叫びつつ逃げ帰らむ。 東京と比較して大阪の夏はたしかに暑いのだが、しかし夏のあいだ男も女も半裸で過ごすのは、幕末の東京でも貧困地域ではふつうのことだった。ただし東京では、1872(明治5)年公布の〈違式詿違(いしきかいい)条例〉以後、きわめて厳格、かつ神経質な裸体の取締りがおこなわれた。取締当局がもっとも気にしたのは、上の文中にもある「外人の目」だった。その点からいえば東京は開国当初から、つねに博覧会なみの用心をしていたのだ。大阪府もまた4年後に独自の違式詿違条例を公布するが、東京における取締りの執拗さとは比較にならなかった。 京都以上に、近い時期の震災や、大きな火災を経験しなかった大阪の中心部は、古いしきたりを大事にする、というより、かえってそのために旧来の制度習慣から容易に抜け出せなかったのかもしれない。船場あたりの黒ずんだ軒の深い大店中店の店先では、時代が昭和に入っても、縞の仕着せものに前垂姿の丁稚や手代が、店先で客の応対や荷造りをするすがたが見られた。 その大店の奥には、まさか近松や並木五瓶の世界が生きているわけではないにしろ、「いとはん、とうさん、こいとさん」などとよばれる娘が、古いしきたりを守り続けることに身を削っているご寮人さん(ごりょんさん)の庇護のもとで、厚化粧に髪はお稚児、帯はお下げとか猫じゃらしとかよぶ両端を垂らした舞子風の締めかたをし、新しい女などとは縁のない夢を見ている時期が長かったようだ。大震災後の谷崎潤一郎が関西で出会い、『細雪』に昇華させたのはそんな女性像だった。むしろ谷崎の追っていたのは、言ってみれば初代中村鴈治郎や三世中村梅玉が演じた、和事の世界のなかの古い女のすがたなのかもしれない。 そんな古い空気を変えていく上で力があったのは、明治末から大正期以後の大阪の富裕層には、東京生まれで、東京で新しい教育を受けた女性が多かった事実、という指摘をするひとがある。 大ざっぱに大阪婦人といっても、現今社交界に立ち、大阪を代表していらっしゃる婦人の八九分までは、東京で育ち、東京で教育を受けられた方々なのでございます。 大阪は、政治や経済の中枢は東京に、学問や文化のエリートを育てることについては、おなじ関西圏でもとりあえず京都に任せ、古い商売の道と、新しい産業の育成に生きる道を見出した。その意味では大阪に造幣局が設けられたのはシンボリックで、桜の通り抜けでにぎわうだけのことはあるといえる。いい意味でも、あまりそうでない意味でも大阪は実利の街であり、学生っぽい理念やモダニズムには背をむける。 1,400頁を越える『三都比較―大阪研究』(1916)を書いた伊賀駒吉郎は、結局大阪の男の求めるのは金と女だけ、という、だれもがいうことばを結論にしている。 さしあたりべつに得にもならない洋服の普及は、男性も女性も東京に較べてはるかに遅れた。東京横浜では、街でもう洋服姿の女性が和服を上回るようになった大戦初期の1939(昭和14)年に、「大阪では働いている婦人の洋服は三分の一でしょうか。洋服を制限している所もありますし、まだ多少洋服が変な目で見られていることは事実です」と、神戸在住の田中千代は言っている(→年表〈現況〉1939年10月 「戦時下働く婦人の服装」【婦人之友】1939/10月)。 しかしその一方で、その前々年に、「一体関西の紳士達は、夏になるとあまり帽子をかぶらないで、みんな繭紬に青い裏地を張った、大型の日傘をさして歩いています。大概そうした人は、開襟シャツを着ています。もっと実行的な人になると、麻のショーツを穿いて、上衣なしで傘をさし、一方に鞄をかかえて、仕事に出掛けるのもあります。これは例年のことで、別段時局からの影響とは思いません。しかし、暑さに対する工夫は、理屈なしに実行的だと思います。東京でも開襟シャツは、この頃ちょいちょい見受けるようですが、それも関西の比ではないようです」という、大阪人の賢明な実利性についての、伊東茂平のするどい観察もある(→年表〈現況〉1937年10月 伊東茂平「非常時の日本婦人の服装について」」【婦人画報】1937/10月)。 (大丸 弘) |