テーマ | 民族と民俗 |
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No. | 806 |
タイトル | 東京人の見た関西 |
解説 | 明治・大正期の東京人の、京大阪人の趣味に対する眼はかなりきびしい。江戸の人間にはながいこと、上方文化へのコンプレックスがあった。もうひとつ、とりわけ下町の江戸っ児といわれるような町人職人階級には、もの知らずと、ひがみ根性の裏がえしによる、よその土地の人間に対する江戸っ児ぶりの傲慢さがあった。それは開化の時代になってもすっかりなくなったとはいえないようだ。箱根山の東には化け物はいないとか、上方贅六といったセリフは、けっこう生きのこっていた。 江戸とちがう上方趣味としてむかしからいわれたのが、京都の人間が身なりに金をつかい、身なりで人を見る、俗に京の着倒れ、ということ。それにくらべて江戸ではめだったところに金をつかうことをきらう。ふつうには気づかれないような着物の裏地とか、下着、それから履物に金をつかうのを惜しまない。 また上方女の厚化粧にも定評があった。時代にもよるが江戸の女が、素顔、水髪、素足を誇ったのに対して、上方の女の白粉(おしろい)は濃く、髪には念入りに油をつけた。よく上方の女性は髪をだいじにするためにめったに髪を洗わず、そのため髪の毛が臭い――などといわれる。この点について東京名題の髪結、下谷の佐藤あき(秋子)はこういっている。 京阪では油や鬢つけを沢山用いますが、これはあちらの人は何かにつけてつましいので、髪なども十日ぐらいは保たしておきます。それにはどうしても固油を沢山用いなくてはならぬので、自然の要求から油類を多量に使うのでございます。 髪型については1918(大正7)年に、全国各地の一流髪結が招かれて、大阪の中座で大競技会を催したさい、東京を代表して出場した佐藤あきは、「大阪風の髪は大人も子どももみな似かよっていて、結う人の個性や、それぞれの髪型の特色が乏しい」(→年表〈現況〉1918年5月 「東京大阪の髪の結いぶり」都新聞 1918/5/13: 4)、という感想をもらした。 そののち、関東大震災(1923)のために京大阪に移り住むことになった人々の、大阪人の装いについての印象も、多数のこされている。いくつかの例をあげてみよう。 一体に厚化粧で風がハデね、私なんぞ生まれて初めて勤めの身となって、ハデだと思って着たこの着物が、大阪の方にはまだ地味なくらいですってね、そしてお風呂から上がってもあんなにベタベタ厚化粧するなんか(……)。(西区信濃橋詰の某組合に勤めている22歳のIさんは、もと東京下谷西黒門町に住んでいた。) 大阪の人は、絹物を着ないと外出できないように思っているようですね、生徒までが木綿ものを学校に持ってくるのを恥のように心得て、裁縫の時間は、着物の競争会のようです。(南区大国小学校の裁縫の先生で22歳のEさんは、小田原で地震にあった。) 専門家の見方としては、その2年後に大阪を訪れた銀座資生堂の三須裕が、大阪の女性をつぎのように観察している。 大阪では錦紗ずくめの女性が多い。タイピストなど職業婦人でも、着物は銘仙でも羽織は錦紗で、それも柄物が多いため、見た目には東京の女性より綺麗。それなのに履物は粗末で、足袋と下駄は綺麗なものをはいている人が少ない。その粗末な下駄をはいている人が、指にはりっぱな宝石入りの指環を、一つならず二つも嵌めている人がいる。 錦紗は縮緬の一種で、より細い糸をもちいた地薄の織物、1920年代(大正末~昭和初め)から昭和戦前期には、キンシャの着物といえば派手やかで、もっとも女っぽい地質として若い女に喜ばれた。三須の観察はしょせん旅行者のものだが、おなじような一過性の観察者がほぼ口を揃えているのは、関西、とりわけ大阪の女性の装いの濃厚さと、アンバランスなぜいたくさ、といえるだろう。 関西人へのこの種の批判がいつまでもつづいたのは、マスコミが東京中心だったせいもあるだろう。下町新聞といわれた[都新聞]などには、とりわけその傾向があったようだ。 けれども東京と大阪の間が、汽車で一晩で結ばれた今日、昔のような風俗のちがいはなくなった、という見方もぽつぽつ現れてくる。しかしそれは結局、上方らしさが消えて、もしくはうすれて、ひたすら東京風に、東京の亜流になるだけなのかもしれなかった。 1875(明治8)年という早い時期にも、大阪では近頃東京風が流行し、髪型も江戸風、帯も両方へブラブラ下げることをやめ、重ね裏の草履も東京風の吾妻下駄になってしまい、そのため浪花娘のたおやかな優しい姿は大いに減じた、という嘆きの声があった(→年表〈現況〉1875年3月 「東京風」東京日日新聞 1875/3/30: 106)。 それがとくにつよく言われるようになったのは、震災後だったが、1910年代(ほぼ大正前半期)から、三須の観察した1926(大正15)年にいたる間も、関西の女性が概して流行に、それも東京からの流行に盲従する傾向にあるとは、多くの観察者が口をそろえて指摘している。流行については、首都であり、情報の発信地である東京に、関西が追随する姿勢をもっているのは、むかしも今もしかたがないかもしれない。 近代大阪の生活文化を回顧して書かれた数多くの著書に目を通して、とりわけ東京のそれとの比較で気づくのは、装いに関するエピソードの乏しさだ。 東京中心の生活文化史であると、明治初年の断髪令、廃刀令にはじまり、明治10年代の束髪、明治20年代の復古調、明治30年代の廂髪と海老茶袴の女学生たち、明治末の〈新しい女〉の風俗、女優髷と七三髪、大震災前後の耳隠しとそれにつづくモガモボ、断髪、洋髪、洋装と、昭和10年代のパーマネント騒動―街の情景の時間的推移を、このような具体的で、華やかなイメージでたどることが可能だ。大阪でもこうした現象が、東京に追随してまちがいなく存在したはずなのに、大阪生活文化史の著者には、その時代その時代の欠かせない情景として、ほとんど認識もされていない。 ただしそれだからといって大阪を責めるべきではない。パリも、ロンドンも、ニューヨークも、それぞれの国内の他の都市に対しては、ファッションに関するかぎり同様にガリバーなのだ。ファッションにかぎらず、情報発信源の大都市は、ひとつの国内では対等になろうとする者をきらうらしい。 欧米文化に対するわが国の基本的な姿勢同様、地方都市にとっての東京風俗は、学んで従うべきものなのだ。東京にとっての京都風や大阪趣味は、ひとつの素材にすぎないが、地方都市にとっての東京は教科書だった。そしてまた学ぶ立場の人々は、自分で生みだす人よりも頑固なものだ。三須も大阪風を批判はしたものの、しかし全体としては、東西の流行はそう違いがみられないとも言っている。 もちろん関西がすべて東京化することなどありえない。震災後、多くの生粋の東京人が関西に住むようになり、谷崎潤一郎の阪神間、志賀直哉の奈良など、関西の、それまではそれほど知られなかったよさが認識された。 そんなレベルのはなしではないが、逆に関西風の東京浸潤としては、1920年代8大正末~昭和初め)の、関西カフェの銀座進出もあった。もっともこれは、大阪風の例の濃厚さを売物にしたサービスとして、悪い印象のひとつだったかもしれない。 (大丸 弘) |