近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ メディアと環境
No. 705
タイトル 映画
解説

映画――活動写真が舶来の見世物としてわが国に入ってきたのは、日清戦争が終わってまもないころ。東京の浅草に映画常設館の「電気館」が開業したのが1903(明治36)年。大阪では少し遅れて1907(明治40)年、千日前に「電気館」が開業している(→年表〈事件〉1907年7月 「大阪千日前に電気館開業」〔谷川〕)。

日露戦争の実写映画は、本物の迫力によって人々の魂を奪った。映画の最大の魅力はこの「本物」、あるいは本物らしさの迫力だ。それはもちろん戦場や災害報道、ナイヤガラ瀑布の紹介のようなドキュメンタリーだけではない。ポルノ映画も、映画の歴史のごくはじめから人気があった。日本でもすでに1917(大正6)年には、東京の某有名料理店での、「西洋ものの裸体婦人」の秘密活動写真会が検挙されている(→年表〈事件〉1917年1月 「秘密活動写真会の検挙」朝日新聞 1917/1/16: 5)。

映画の人気を支えた大きな、案外気づかれない要素は、それまでの芝居や寄席に比べると値段が安く、アクセスが容易だという点だろう。映画はその第一歩から、大衆のものだった。1909(明治42)年にはすでに東京市内に74館の活動写真館があった(→年表〈事件〉1909年x月 「この年、活動写真館増加」〔谷川〕)。この時代の芝居や寄席は、木戸銭のほかにいろいろな名目でよけいな出費が必要だった。また館内が暗いから、だれがどんな恰好をしていようと勝手だ。こういったことはとりわけ子どもにとっては好都合だ。映画館の初期の発展を支えたのは小中学生だったかもしれない(→年表〈現況〉1912年2月 「活動写真と児童」朝日新聞 1912/2/6: 6)。だから映画に対する最初の規制は、児童生徒への悪影響をおそれてのものだった。

たまたま、フランス映画の《ジゴマ(Zigomar)》が輸入され、大ヒットした。これは[ル・マタン(Le Matin)]に連載された犯罪小説《ジゴマ》の映画化で、翌々年に映画化され、その年1911(明治44)年には日本にも入ってきている。子どもたちは映画館をでると、興奮の冷めないまま、怪盗ジゴマごっこに夢中になった。このことを警視庁や、東京市小学校児童校外取締連合協議会、というところなどが問題にした。実際に犯罪の手口をまねる素朴なファンがいたそうだから、警視庁が目を光らせるのはしかたがないかもしれない。しかし協議会の決定事項のなかには、「西洋風俗の映画は我が国の風習に反するもの多くして、教育上往々有害のものあり(……)」、「映画説明者は興味を助くること大なれども、其の言語態度往々宜しからざるものあり(……)」といった老婆心もみられる。

芝居は作りものだが、映画では本物が見られる、という特質は、映画の世界から女形を放逐した。すでに1908(明治41)年には、東京の吉沢商会が目黒で劇映画の制作に手をそめていたが、出演俳優はみな歌舞伎や小芝居の、あまり名のない役者たちで、女性は男優の女形がつとめた。やがて映画人気が芝居をこえるような事態になってくると、狼狽した劇場側は、1911年、今後映画に出演した俳優は一切舞台に出演させないこととする(→年表〈事件〉1911年11月 「東京劇場組合総会決議」読売新聞 1911/12/14: 3)。このため吉沢商会は自前の映画俳優の育成をはじめることになり、そのなかには女優もふくまれた。1920(大正9)年に創立した松竹キネマは、最初から女優の採用と育成をはじめ(→年表〈事件〉1920年4月 「松竹キネマ合名社創立」『日本映画史』)、しばらくのあいだ日本映画は、女優と男性の女形とが、ひとつの映画のなかで共演するかたちになる。舞台でも、女優といっしょに演技することは女形には辛い。しかし舞台はしょせん遠見だ。映画の女形にとって致命的なのはクローズアップだった。

女形の出演した最後の映画は1922(大正11)年の日活映画《京屋襟店》(→年表〈事件〉1922年x月 「京屋襟店」)。このあと女形俳優は全員退社した。入れ替わりに同社には、岡田嘉子、夏川静江という、のちの大スターたちが入社したことはシンボリック。翌1923(大正12)年には、栗島すみ子が松竹映画《自活する女》のヒットにより、アメリカの恋人メアリー・ピックフォードのむこうをはって、「日本の恋人」とさわがれる(→年表〈事件〉1923年4月 「最初のスケールの大きな美人スター」『日本映画史』)。

クローズアップはもちろん顔ばかりではない。しなやかな手足をむき出しにしたセーラー服の女学生や、流行の支那服、また水着の娘など、肢体の美しさ、セックスアピールを前面におしだすことは、映画が大衆の熱い関心をひきつけるための欠かせない要素になっていた。それはもちろん、つねにアメリカ映画への追随、あるいは模倣というかたちで。

1927(昭和2)年にハリウッド映画《イット(It)》が公開される。主役のクララ・ボウも一連のグラマー女優のひとりである。美人女優ルイズ・ブルックスの演じた《人生の乞食》の公開は翌1928(昭和3)年(→年表〈事件〉1928年x月 「ルイス・ブルックスの代表作公開」)。彼女は日本の断髪男装のモダンガールたちの、しょせんかなわぬお手本になる。

ハリウッド映画のこういう性格については、眉をしかめる日本人も多かった。すでに1924(大正13)年、東京帝国ホテルで催された土曜日恒例のダンス・パーティーに、右翼の暴漢が乱入するという事件があった。彼らのふりかざした檄文には、米人宣教師の国外退去、亡国淫風の舞踏の絶滅などとともに、米国映画の上映禁止、があった(→年表〈事件〉1924年6月「帝国ホテルのダンス・パーティーで事件」朝日新聞 1924/6/8: 7)。

右翼の暴漢ばかりではない、1928(昭和3)年には、ときの文部大臣が映画館経営者たちを官邸に招いて、近来モガモボなるものが流行しているのは、主として外国映画の影響とみられるので、今後は外国映画に対して厳重な検閲をおこない、ドンドン上映禁止をしてほしい、という意見をのべている(→年表〈事件〉1928年8月 「勝田文部大臣」読売新聞 1928/8/17: 2)。

映画が小説よりも、歌舞伎よりも、そのほかのどんな芸術、娯楽よりも、広い範囲の大衆に受けいれられているという事実は、身装にかかわるさまざまの情報の、かけがえのないメディアである、ということだ。一般に写真に対しては、映っているものが事実、という眼の信頼感は根づよい。しかもわれわれとおなじように、動いて、生活するのだ。それが入江たか子や、田中絹代が演じている、ということはあたまではよくわかっていながら、しかも人々はそれを、ある種の事実として、からだに染みこませる。

(大丸 弘)