| テーマ | 産業と流通 |
|---|---|
| No. | 602 |
| タイトル | 衣料関連産業 |
| 解説 | 近代以前、衣服に関連する商業取引は、布地と古着がほとんどすべてだった。 布地――呉服、つまり絹織物と、太物、つまり木綿ものと、わずかの麻織物とは、多くが生産地で最終製品のかたちまで加工された。京友禅などの染め呉服、江戸そのほかでの藍染めなども著名だったが、ものの流通の構造には長いあいだ大きな変化はなかった。 開化以後、衣服に関する品目と、その流通のかたちを大きく変えた原因の第一は、海外からの多様な輸入商品であり、第二は日本人の衣生活の変容、端的には洋装化だった。 関連する輸入品のなかでもいちばん大きなものは毛織物だった。洋装化に反対する意見の中には、洋装にぜひ必要なラシャはすべて輸入に仰がざるをえないから、国の財政上大きな負担になる、という危惧もあった。実際には、日本人の衣生活の中に急速に浸透した羊毛素材はラシャだけではなかった。セルも、モスリンも、明治の末には、もう外国生まれの生地とはいえないくらい、日本人の衣生活に同化してしまっている。そのためにわが国では、原毛の生産には失敗したが、紡糸以後の加工を国内でおこなおうという努力が、官、民によって続けられた。たとえば1915(大正4)年をもって海外からのモスリンの輸入が終わり、以後は国産モスリンの時代に入っている。 木綿の場合はいくぶん事情がちがい、もともと江戸時代にはひろく木綿栽培が行われ、各地で特色のある綿織物が製織されていた。しかし維新後に安い綿織物が海外から入ってくると、みじかい期間に日本国内での綿花栽培はほとんどあとを絶ち、それ以後はインド、オーストラリア、アメリカから輸入した原綿による綿紡績が発展しはじめる。1890年代以後(ほぼ明治20年代)、紡績業者が織布業にものりだすようになると、それらは日本の産業を代表するような巨大企業に成長する。1920年代後半(昭和初期)にはマンチェスターを圧倒して、日本の綿布輸出が世界最大のシェアを占めるにいたっている。 衣服に関していえば、第二次大戦前のわが国の流通構造は、川上の原綿原毛の輸入にあたる商社と、布帛メーカーが大資本の上に聳え、二次加工を担う縫製業者(戦後のアパレルメーカー)と小売業者は規模が小さい、という頭でっかちの姿だった。もっとも1930年代(昭和戦前期)になると都市部ではデパートの集客力が著しく大きくなったため、縫製業者の弱小さだけが眼についた。既製洋服の場合であると、最終的に着る人のためのデザインを考え、手を通せるかたちのあるものに縫いあげていたのは、デパートや洋品店、洋服屋の下請けをする小規模な町工場だった。だれもが名前を知っているような有名アパレルメーカーは、ほとんどすべてが戦後の創立で、1990年代に上場50位までに入っているメーカーのうちでは、レナウン一社のみが1923(大正12)年に「レナウン」の商標を採用しての戦前創立だ。そんな零細な縫製業者たちの、海外の情報を確実に手に入れる能力も疑わしいし、そのコピーを「ファッション化」するほどの量産の力にもほど遠かった。 戦前の既製衣服の生産で見落とせない企業にいわゆる被服業がある。明治新政府は新しい国家建設のためにまず近代的な軍隊と警察を整備し、鉄道を敷設し、郵便制度を全国に行き渡らせた。そしてその軍人、警官、職員にはすべて洋風の、夏冬の制服を支給した。政府高官たちの衣服は大礼服を含め、たいていは名の知れたテーラ―たちの手で調整されたようだが、下級役人や、こうした軍人、職員の着衣まではとても手がまわらない。軍服だけでも、西南戦争(1877)当時で十万着以上を必要としたのだ。 客の注文を受けて寸法をとるようなテーラーを一つ物屋というのに対し、制服類の大量生産を引き受ける業者を数物師とよんだ。数物師のうち、柳原の古着街あたりとむすびついて、既製衣服、当時の言いかたで仕入物の縫製をもっぱらとする業者とはちがって、軍服、制服類の入札に参加し、大口注文の請負をする業者を、のちに被服業とよぶようになる。これは軍部や当時の鉄道省、逓信省が制服類を被服とよんだためだ。ただし軍服については、やがて1890(明治23)年3月に陸軍被服廠条例が公布され、調整は軍が自主的におこなうことになった(→年表〈事件〉1890年3月 「陸軍被服廠条例公布」【勅令】第58号 1890/3/27)。 被服業界はその扱う分量が巨大であるため、縫製業のなかではかならずしも零細とはいえないスケールになっていたので、入札によるやや不安定な公的受注にだけ頼るのではなく、やがて民間企業の制服、学生服、医療用または作業用ユニフォーム類、炭鉱、漁業、農業、危険作業用の特殊労働衣、あるいはレインコートなどの分野にまで手をひろげる。 装いに関する商品は衣服だけにかぎらない。靴、時計、宝石貴金属、化粧品、洋傘、鞄類などは、それぞれの世界の先覚的企業家たちによって、順調な発展を遂げていた。また、下駄や櫛、簪などのように、旧来の業者がほとんどそのまま、時代の横波を被りつつも商売を続けていた分野もある。 一般に服飾付属品とされる品目のほとんどは、いわゆる雑貨の部類に入る。こうした物品の製造は機械化が遅れがちで、労働集約的作業に依存するため、人口の多い大都市部にその生産拠点ができる。たとえば大阪市史によると、すでに1880(明治13)年ごろの大阪西成郡(現在の大阪市西成区あたり)の製造品目中に、以下のようなものが見いだせる。 花簪、櫛、鼻緒、鏡、髢(かもじ)、日傘、下駄、(西洋)靴、合羽、鬢付油、巻脚半 大阪での帽子製造、とくに麦藁帽子はよく知られている。また1883(明治16)年頃からのボタン、明治後期以後のメリヤス製品、石鹸、ブラシなども、たいていは家族的な作業によって発展した。 (大丸 弘) |