近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 549
タイトル 復員兵と進駐軍
解説

1945(昭和20)年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾してそれから「終戦後」という特異な時代がはじまる。

経済企画庁が、もはや戦後ではない、とその年の経済白書のなかで言ったのは1956(昭和31)年7月だった。しかしその時代に生きたひとにとっては、昭和31年などというのは、世の中がすっかりおちついて、新しい昭和戦後期という平和な時代が、もうかなり進行していた時期のように感じられるのではないだろうか。

都市に住んでいた多くの日本人には、敗戦と戦災とはせいぜい半年程度のへだたりしかなかったから、あの夏といえば、終戦の天皇の放送などよりも、住みかを焼かれて行きどころも、その日食べるものもなく追いつめられた時期、としての記憶の方がはるかにつよいだろう。大都市の住居地域への空襲が本格的にはじまったのはその1945年の3月で、6月にかけて中都市までが徹底的に焼かれ、運の悪いひとは何カ所もの住みかを転々と逃げまどった。山の横穴へ避難する人を追って艦砲射撃まであった。全身焼夷弾で焼かれて身動きもできないひとが、仇を討ってくれと叫んでいた。子どもたちは焼け跡に立って「米英撃滅」と、お経のようになった文句をつぶやいていた。

そういう経験をして生きのびた人々は、大人も子どもも、絶対に負けることはないと信じこまされていた日本が負けたという屈辱感と、これからどうなるのだろうという不安とをかかえて、どこもかしこもの焼け野が原にたたずんでいた。そしてあらゆるところでの無秩序と混乱がはじまった。そのなかへGIキャップをかぶったアメリカ兵がジープに乗ってわりこんでくる。ずっと後になって、人々が悪夢のような戦後として思い出すのは、そういう情景の、せいぜい2、3年のことだろう。

そんななかでも細々とながら食糧の配給もあり、警察も、市役所や区役所も一応機能していたのは驚くべきことだ。しかしもちろん配給の米は1日2.9合で、それも遅配欠配つづき、副食物の配給はほとんどアテにできなかった。1945年の米は未曾有の凶作だったが、海産物は比較的豊富だった。烏賊、鯵、鰯、鱈などが闇市で売られ、復員帰りの男が烏賊のつけ焼きとトウモロコシの立食いの夕食をしていた。

復員兵のなかにはどうして隠してきたのか銃器をもっている者がいて、荒仕事に手をだす人間もあったらしい。予科練崩れの強盗、という話をよく聞いた。復員兵はもちろんみなまだ官給の服を着ていたが、終戦が夏だったため、開襟の上衣か、丸首の襦袢、軍袴(ぐんこ)という恰好で、それも終戦時にいた地域によってちがいがある。第一、太平洋戦争期の日本軍は、それまでの勅令で制定した統一された軍服から、広範囲にひろがった駐屯地の状況に応じて融通のある服装になっており、ことに戦争末期には着衣を補給する余裕などなかったから、復員軍人といっても着ているものはマチマチだった。にもかかわらず、どことなく復員兵がそれとわかったのは、官給の衣袴には、素材や縫製にある特色があったためだろう。一般には戦闘帽といわれた前庇(ひさし)の帽子――正式には略帽――は、これは戦時中小学生までかぶっていたので、目印にはならない。

また復員軍人の多くはなぜか雑嚢を肩からさげていた。戦地での兵隊は背中に背嚢を背負ったうえ、武器弾薬や工作用具などたくさんのものを身につけるので目立たないが、雑嚢にはふつう数日分の食料を入れてかならず腰につけている。復員兵はどこへ行くにもこの雑嚢をさげている、というので、敗戦袋などと呼ばれていた。

敗戦の年の寒さは例年なみだったが、空腹の人には余計こたえたろう。しかし終戦が夏だったため復員兵で外套をもっている人はほとんどなく、厳冬でも上着だけ、ポケットに手を入れ、大きなマスクで寒さをしのいで、駅のホームに電車を待っているすがたがよくみかけられた。ただし復員兵でも内地勤務だった人のうちには、終戦時に基地の倉庫からもてるだけのものを、なかにはリヤカーごともち出せたひとがけっこうあったそうだ。

もと兵士のなかでそれを逆手にとって生きる方法を見つけたのは、白衣の傷痍軍人の車内募金だった。陸海軍の旧療養所では原則として、入所者には所内で一律に対丈のキモノ式白衣をきせた。戦時中は集団で神社へ参拝、といったときのほかは、歩き回れるような傷病者が、白衣のまま町を歩くことがあっただろうか。前打ちあわせ構造は傷病者に向いているので、現在でも病院などでは患者用に使われているが、そのまま街なかまで出歩けるというのはキモノの利点だ。傷病兵たちはそれをうまく利用したのだった。

見る人の側の気持だろうが、なんとなく元気のない復員兵とくらべ、進駐軍の兵士は元気そうに見えた。8月28日に占領軍の日本進駐がはじまり、その当座は完全武装のアメリカ兵が東京、横浜などの街頭に、武器を身につけて配備されていた。彼らは昼食も銃を抱えこんだまま携帯食ですます場合があり、その携帯食の中身を、子どもが遠くから物欲しそうにながめていたりした。

そんな警備も、1カ月もたたないうちに、特定の箇所以外はやめになった。日本人は米兵を襲ったりするより、彼らからもっとべつのものを得ようとしていることが、すぐわかったためだ。それが子どもたちのギブミー・チョコレートであり、大人のギブミー・シガレットだった。アメリカ兵士は大体において、けっこう勘定高かったが、愛想がよく、長いこと欧米映画を見ていなかった日本人には、人間ばなれして見えるくらいきれいにも見えた。あのみすぼらしい同胞の復員兵にくらべて、勝利者の側とはいえ、彼らのパリッとした制服―サービス・コート(service coat)も、GIキャップも粋にみえた。

まもなく婦人兵の姿も街頭に現れた。彼女たちの身につけていたサービス・スーツは色は男性と同色だが、1940年代ファッションのスクエアショルダーで、彼女らのてきぱきした態度と、アングロサクソン風のあごの張った顔によくにあった。

クリスチャン・ディオールのニュー・ルックが日本にも知られたのは1948(昭和23)年以後だったが、婦人兵たちで見なれたこのミリタリー・ルックと対比すると、ディオールの生み出した女らしい優雅さは、ひとしおきわだったのだ。

(大丸 弘)