近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 548
タイトル 戦時下の子どもたち
解説

年号が大正から昭和へと変わるころには、都会ではきものを着て学校へ通う小学生は、ほとんどなくなった。ほんのすこしまえの1925(大正14)年にはまだ、東京では女の子も男の子も、外出のおりにはかならず前掛をかけているのが、帰朝早々いちばん目についたと、ある帰朝者が新聞に投書している(→年表〈現況〉1925年10月 「子供の前掛」読売新聞 1925/10/2: 7)。この前掛も、紆余曲折のあった袴の問題も、だれもが洋服で学校へ通う時代になって解消した。

この時期には良質の羅紗が国産されるようになっていて、男子小学生のサージの通学服が5円そこそこで手に入るようになっていた。成長期の小学生はだから結構ダブダブの服を着せられたりしていたものだ。男の子の通学服の多くは中学生風の詰襟だった。それに対して1927(昭和2)年頃から、窮屈な詰襟金ボタンは発育上おもしろくないということで、子ども服らしいかわいらしさを出した背広型や「折立カラー」などの工夫が現れはじめる。人気のあったのは慶應幼稚舎で採用した慶應型だった。舌のよく回らない子は「ぼくのはケイオン型だヨ」などと自慢した。学齢前の幼児期には、男の子も水兵服を着せられるが、学校にあがるようになると、なぜか水兵服で通学する子はいなくなる。

女の子のセーラー服は昭和に入ってからの大都会ではほぼ定着していた。関東大震災(1923)直前に、東京市小学校裁縫研究会が、学校に通う女児に適当な洋服として、セーラー服をえらんで推薦したことが大きかったにちがいない。また体操の時間には、黒いブルーマーをはくこともあたりまえになった。女の子のブルーマーは、男の子の目には非常に奇妙に見えるらしく、体操の時間には女の子の方によそ見ばかりして、叱られる腕白坊主もいた。

ともあれ、昭和一桁の時代は、子どもたちにとっては幸せな時期だった。講談社の発行する少年倶楽部、少女倶楽部、幼年倶楽部は戦後の少年ジャンプよりもぶ厚かった。美しい彩色の「講談社の絵本」は、幼い日の夢をはぐくんだ。郷愁をさそう良質の童謡や叙情歌が数多くうまれた。それらは十数年後、男たちが戦場であすの命もしれないとき、渇いた心の中をよぎることがあったにちがいない。

それに対して昭和10年代、とりわけその後半に小学生時代を送った子どもたちには、世のなかはちがう様相をもっていた。1938(昭和13)年からは、生活物資のさまざまな統制の時代に入り、繊維製品の製造に関しても規制がはじまり、1940(昭和15)年の商工省令、繊維製品配給統制規則あたりから、ウインドウを飾っていた子供服のマネキンもすがたを消しはじめる。慶應型を着た新入生もそのころあたりが最後だった。革でも牛皮は軍需用であるため、ランドセルは豚革になった。それでも革の真新しい、しかしなんだかひどく臭うランドセルを背負っている子は、1クラスに2、3人だった。ずいぶん大きめに造った慶應型が小さくなったころには、着られるものならなんでも着る、という時代になっていた。

1930年代(昭和5年以後)に入ると、小学校へ通う女の子は、それまでの編み下げをやめて、ほとんどがオカッパに変わってゆく。これもまた大都市にはじまり、地方へ波及していった。1935(昭和10)年の[婦女新聞]は、そんな世のなかの趨勢を知らないで、いまだに断髪を禁じている地方の女学校がある、とあざわらっている(→年表〈現況〉1935年9月 「女学校と断髪禁止」婦女新聞 1935/9/22: 1)。

男の子の方は、都会でも田舎でも圧倒的に坊主刈りだった。坊さんのようにつるつるに剃るわけではなく、バリカンで2、3ミリくらいに刈りあげる。この時代、兵隊はみんなこの刈りかただった。きのうまでは、長い髪を七三に分けて油をつけていた先生が、招集されてお別れにみんなの前に立った朝は、背広姿で頭だけはこの恰好に変わっていて、子どもたちは身が引締まりながらも、なんだかおかしかった。都会にはクラスで1人くらいは、髪を伸ばして「坊ちゃん刈り」にしている子がいた。日中事変中なら、毎日女中さんが付き添ってくるような家の子がそうだった、という偏見めいた記憶をもっているひともいる。

男の子がかぶる学生帽は、日米戦争がはじまるころには戦闘帽に変わった。目上の人に挨拶するにはもちろん帽子をとるが、戦闘帽のときは指先を帽子の横にあてて敬礼する。

この手つきにいろいろなヴァリエーションがあって、海軍士官風とか予科練風とか、もの知り顔にみんなに教えている子もいた。

敬礼のいちばんていねいなのはもちろん最敬礼で、遠くにいる天皇陛下に対する宮城遙拝とか、神社に参拝のときがおもだった。天皇陛下に対しては、ニュース映画のなかでも脱帽することになっていて、画面に大きく「脱帽」と出た。

時代は昭和初期叙情歌から軍歌に変わっていた。校庭でみんな揃ってやる体操は、ラジオ体操でなく、天突き体操に変わった。コブシを握って、エイ、エイとかけ声かけて四方八方を突きまくるのだ。明治以来の学校体育はもともと軍事教練に密着していたが、小学校でも男の子たちは、なにかというと歩調をとって、軍隊風に行進させられた。そういうときに気勢をあげるために軍歌を歌うこともあった。戦争は結局男の仕事らしい。男の子が軍歌を歌って分列行進したり、突撃したり、騎馬戦や棒倒しなどの「戦時スポーツ」に歓声をあげているとき、女の子はなにをしていたのだろう。

1941(昭和16)年末、日米開戦の年あたりからは、真冬を除けば学校にいるあいだ、靴など履いている子はいなかった。小学生用の運動靴は学校単位で特配があったが、それは1年に1クラス10足もなく、多くは子どもの手に入るまでに、そのころ流行の横流しされたのかもしれない。その時代の冬は寒く、1、2月は都市でも道路一面に霜の朝が多かった。下駄の鼻緒を切って、素足で氷を踏んで学校にたどりつく子もあった。

(大丸 弘)