| テーマ | 着る人とTPO |
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| No. | 547 |
| タイトル | 戦時下の女性たち |
| 解説 | 市街地に対する絨毯爆撃によって、大都市居住者の日常生活がまったく荒廃したのは戦争最後の半年だった。それでも3月10日の東京大空襲で焼けだされ、横浜に逃げてきた人が、ここでは女の人がまだ口紅をつけている、と腹をたてたという話があった。その横浜も5月末には80パーセントの地域が焦土になるのだが――。じっさいわが身になってみるまでは、配給が乏しくなっても、戦況が切迫してきても、空襲なんて本当にあるのかしら、というような呑気さが、日本が負けるはずがないと、信じこまされてきた民衆の心のなかにはあったようだ。 まして太平洋戦争初期の、南方での戦果にわいていた時期は、軍需景気で金ばなれのいい人も多かったし、盛り場は娯楽を求める人でかつてないくらいにぎわっていた。 近頃の銀座の人出はまことに物凄い。(……)ここ二年ほど前からの、実に事変以来の流れである。(……)お嬢様達のあの着物の色を見てください。強烈なほどの原色のあの近代模様?それから草履の色調にもお目とめあれ。あれはネオン調というのだそうです。 「銀ブラ党から交通税を取れ」という意見もあったというが、大阪でも1941(昭和16)年の物品税統計で化粧品の売れ行きが突出し、近畿の2府10県の女性が1カ月に支払う化粧品の代金が3百万円をこえ、「チトべらぼうすぎないか」と税務監督局がおどろいている(→年表〈現況〉1941年6月 「化粧品が売れ過ぎます」大阪毎日新聞 1941/6/22: 2)。 白粉(おしろい)の白壁のような厚塗りは、外国人には気味悪がられるほどの、過去の日本女性に浸みこんだ習慣だったから、うすれたとはいえそう簡単に消えてはいなかった。この時期のある女性からの投書では、化粧する女性が5人に1人あるとし て、1千万人がひとり5銭の化粧代を使うとし、その女性が1カ月2日化粧をやめると、年に1千2百万円の節約は易易たるもの。飛行機を献納して、これを「全女性号」と名付けたら――と(→年表〈現況〉1941年7月 「投書―一日無化粧」朝日新聞 1941/7/20: 夕1)。その後、婦人団体は、毎月8日の興亜奉公日を「白粉なしデー」としている。 戦前から戦中にかけて、「難しいことはわからない」女性たちに非常時の意味を教えこみ、行動へと駆りたててきたのは、各種の婦人団体だった。1901(明治34)年に創立された愛国婦人会が上流階級の女性たちの社交の場のようだったのに対して、もっと積極的に軍国主義的な国策に添った活動を、という趣旨で、1932(昭和7)年に生まれたのが国防婦人会だった。それは満州事変のおこった年だ。昭和7、8年といえば、エログロナンセンスから東京音頭フィーバーの交錯する、まだ平和でのんきな時代でもあったのだが、それでも、応召した夫に後顧の憂いがないようにと、自殺した若妻が何人かあったというニュースが、人々の心に冷たい影を落とした。 暗い時代に突きすすんでゆく国の方向に、より素朴に忠実だった婦人団体は、地方の処女会だったろう。愛国婦人会が既婚婦人を対象としていたのに対して、処女会はその名の通り未婚女性が対象だった。1927(昭和2)年に、処女会が大日本女子青年団という名称で全国組織化されたときも、処女、ということばは若い女性にとってはかけがえのない誇りであるからと、名称変更を惜しむ声が行政のなかにもあった。 処女会の目標は、貧しい、たち遅れた農山漁村の生活を、もっと合理的なものにしようという、生活改善が中心だった。だからその最初の具体的活動は、とりわけ冠婚葬祭での無駄な出費の節約――花嫁のきものの袂を短くするとか、宴会を一晩だけにするとか、また男たちのふだんの飲酒の抑制とかになる。若者小屋の延長のような場合もあった男子青年団にくらべると、よりマジメで、優等生的だったといえるだろう。処女会にかぎらず婦人団体の活動の特色として、実生活に具体的にたち入る視点をもつのはいうまでもないが、それにときには、怖いようなキマジメさがあるものだ。 各種婦人会は日米開戦後まのない1942(昭和17)年2月に、大日本婦人会に統合された。コート形式の会服が制定され、なにかの行事というと、大日本婦人会という字の入った白襷をかけた。ところが地方の会員から、常会などには会服を着てくるようにと、半強制的にいいきかされて、もののない時期だけに困るという苦情がでた。もちろん中央がそんな指令をだすわけはないのだが、末端の役員の、ある種のキマジメさが、そういう結果を生んだのにちがいない(→年表〈現況〉1942年5月 「古着を活かして婦人標準服を基礎に――大日本婦人会々服の裁ち方」朝日新聞 1942/5/20: 4;→年表〈現況〉1942年7月 「投書―日婦の会服新調強要に非難」大阪毎日新聞 1942/7/18: 7)。 その時期になると女性のほとんどは手製のもんぺすがたになった。それはたいてい箪笥の奥に眠っていた紺絣などの黒っぽい生地を、上下に切って更生したものだった。また、ズボンをはく女性もけっこうふえていた。わずか4、5年前、日中事変のはじまったころにもズボンの女性は見かけたが、数はすくなく、相当気丈な娘さんだ、などといわれたものだが(→年表〈現況〉1943年3月 藤田雪子「女性のズボン 目覚しい進出―幅をゆつたりとる “女らしさ”を失はぬ作り方」東京新聞 1943/3/2: 6)。 見てくれもふくめて、みんなの気持ちがマジメで、ひとつになっている、というのはさわやかのようで、怖いことだ。とはいえ、町が灰になるまでは、映画館にもお汁粉屋にも、国民服にまじって、もんぺすがたでの長い行列があった。美容院も、悪口をいわれながら、統制された電気の代わりに、炭を使うパーマネントで、繁昌していた。 男性が戦場に去った職場には、代わって女性が進出した。1939(昭和14)年7月の国民徴用令施行ののち、散髪のような仕事に男のすがたはなくなったが、軽労働だけでなく、中労働といえるような職場にも、男性とたちまじって汗と油にまみれる女性の数がふえた。1943(昭和18)年9月には、25歳以下の未婚女性を対象にした女子勤労挺身隊が編成され、高等女学校の3年生以上は、軍需工場へ通うことになった。たいていの工場はもともと、男子工員だけを相手の設備だったため、娘たちにとって辛かったのは、仕事の内容より、婦人トイレも、着替えのための場所もなかったことだったという(→年表〈現況〉1944年9月 「欲しい更衣室と便所」朝日新聞 1944/9/30: 2)。 敗戦の日を目前にした1945(昭和20)年の7月、つぎのような投書が新聞に出ている。 豚娘がまだいる。呆れたことである。私は学徒動員で浅草の戦時農園作業で働いているが、朝の九時前頃から浅草の実演館の楽屋口に、この豚娘どもが人垣をつくっている。スカートがモンペやズボンに代わっただけで、口紅も白粉も髪も戦争前のものだ。女子工員らしいのが弁当持参で早くから行列しているのを見ても苦々しく思う自分達だ。楽屋口の豚娘の浮ついた態度を眺めると、鋤鍬をもつのがいやになる。 大都市のほとんどの地域は焼野原だった。女子工員らしい、というのは徴用された高女生かもしれない。映画の上映は資材や電力不足の関係から困難になっていたが、その代わり東京では、名の売れた映画俳優が、焼け残った場末の小屋にナマ出演するようなことがよくあった。あすは米艦からの艦砲射撃で命を落とすかもしれない、追いつめられた日々、若い娘たちの乏しい休日の息ぬきを、あまり責めるのは酷だろう。 (大丸 弘) |