近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 546
タイトル 統制の時代
解説

日中戦争がはじまったのは1937(昭和12)年の7月、それから敗戦の1945(昭和20)年8月まではほぼ8年。戦後、国民の生活水準が戦前の昭和10年前後程度に回復するのに、約10年を要したといわれている。生活の窮乏という点では、本土空襲のはじまった1944(昭和19)年頃から、戦後4、5年にかけてがもっとも深刻だった。それ以前、とりわけ日中戦争の初期などは、平和な時代のたくわえがまだまだあったし、軍需景気というものもあって、どこで戦争をやっているのかというような街のにぎわいさえあった(→年表〈現況〉1939年12月 「軍需景気と毛皮の需要」朝日新聞 1939/12/31: 7)。武漢三鎮陥落とか南京陥落とかのたびに、市民は旗行列や提灯行列をしてよろこんだ。銀座の人出や、映画館の繁昌などもかつてないほどといわれた。

日中戦争はこの時代には、満州事変につづいて支那事変といわれていた。近衛文麿内閣は事変勃発後9カ月目の1938(昭和13)年3月に、〈国家総動員法〉を公布した。総力戦遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制、運用できることを規定したものだった。人々はなにかにつけて、非常時ということばを口にした。店頭の商品がすこしずつ消えはじめた。食堂のランチに添えてあるソーセージが、2枚だったのが1枚になり、そして半分だけになる。

衣料品関係での大きなできごとは、まず1937年10月11日のス〈テープルファイバー等混用規則〉(商工省令第25号)において、毛織物には2割ないし3割のスフの混用が義務づけられた。つづく12月27日の〈綿製品ステープルファイバー等混用規則〉によって、輸出品以外の綿製品に、3割以上のスフ混用が義務づけられた(→年表〈事件〉1937年12月 「綿製品ステープルファイバー等混用の規則」【商工省令】第35号 1937/12/27;「綿糸販売価格取締規則」【商工省令】第24号 1938/5/20;「繊維製品販売価格取締規則」【商工省令】第36号 1938/6/29;(→年表〈現況〉1938年7月 「ス・フを迎える用意」朝日新聞 1938/7/5: 6;→年表〈事件〉1938年11月 「毛織物製造制限規則」【商工省令】第101号 1938/11/25)。

ふつうスフとよばれたステープルファイバーは、北海道、樺太産の針葉樹パルプを原料とするヴィスコースから紡糸した半合成繊維だ。出はじめのスフはとりわけ弱くて、子どもがおもしろがってちょっと引っぱっても、スフ入りの手拭いは二つに裂けた。

スフ混用規則でとりわけ影響の大きかったのは洋服業界だった。日中戦争のはじまった1937年当時、わが国は年々7億円の綿花と、2億円の羊毛とを輸入していた。二つを合わせると輸入総額の三分の一に上り、これをなんとか減らすことも緊急の目標になっていた。一方で羊毛の輸入制限は実施するものの、軍服等の軍需をけずることはできない。スフ入りの背広の時代は目の前に迫っている。1938年の4月、東京羅紗卸商商業組合が中心になって、「急げ新調 名残の純毛」キャンペーンが展開された。「純毛品は本年の春夏だけであって、この秋から市場に出る新品は総て混織品である。今こそ洋服を新調されるのが需要者として得用であり、今こそ新調を奨めるのが客に対する真の親切である」というのがキャンペーンの趣旨だった。

国家総動員法の第6条によると、労働者の雇用、解雇、賃金、労働時間の統制が規定されているが、1938年7月の警視庁による娯楽統制とか、1939(昭和14)年10月の価格等統制令とか、統制は生活の全般に及んでいた。1939年制定の国民徴用令も、総動員法第4条の規定に基く国民の労働の統制のかたちだ。

ある評論家は、現下の状態では統制は弾圧の同義語のようになっているが、「ほんらい統制は欠乏に備えるためだけではなく、生産の合理化、目的化の手段である。だから文学にも統制という考えはあってよく、それは徒に日常性の凡俗に淫することなく、積極的、建設的な生活に添った文学をつくることである」といって前向きに受け入れている(河上徹太郎「統制の真義」朝日新聞 1938/3/15: 7)。その時分、統制、というのは流行語のようでもあった。

統制ずくめの戦時生活のなかでも、民衆にいちばん身近だったもののひとつは、衣料品分野でいうなら1940(昭和15)年2月以降何回か改正された繊維製品配給統制規則、1942(昭和17)年2月に施行された衣料切符制度、それに公定価格だろう。

戦時中の主要消費物資は、原則として配給だった。その代表的なものは米だ。大食でも小食でも、大男でも小女でも、大人であれば一人一日3合5勺(しゃく)の白米ときまっていた。それを受けとるための米穀配給手帖は身分証明書代わりにつかわれ、戦後も1995(平成7)年に〈食糧管理法〉が廃止になるまでは、もう何の役にもたたずに残っていた。肉や魚、野菜も地区ごとの配給だった。練馬の3班、本日はスケソウダラなどというラジオの放送があった。衣料品は個人の需要のちがいが大きいから、一律に配給というわけにはいかず、学校や町内単位で配給される運動靴や長靴のようなものもあったが、基本は点数制だった。

1942年の衣料切符制度では、1人1年200点の衣料切符が配布され、一方で、衣料、繊維製品のそれぞれの点数がこまかく規定された。洋品屋で、シャツ1枚買うにも、お金を支払うのといっしょに、切符をちぎってきまった点数だけわたす。衣料切符の金銭売買はもちろん禁じられていたし、切符など無視した闇の商品流通も横行していたから、衣料切符をつかい残す人もかなりいたらしい。とりわけ農村部などでは、たくさんの切符を余す人が大勢いて、それによって表彰されたりした。さらにこれもおもに農村だったが、衣料切符返納運動という呼びかけさえあった。

多種多様な繊維製品に、すべてきまった点数をつけるのは、どこでどんなひとがやったのか、容易ではなかったろうが、それ以上に大変だったのは公定価格の設定だ。1941(昭和16)年に服種ごとに次々と告示された公定価格――当時はマル公といわれた――をみると、ネクタイ、肩掛及頸巻、テーブル掛及カーテン、中等学校生徒の制服など、百に近い大分け服種のなかで、また何十という小分けをし、いちいちの服の大きさや素材、飾りの有無などによって細かく値段をきめている。結果的にはその実行期間が3年もなかったことを考えると、むだな労力とはいえないまでも、もっとほかに方法がなかったのかと、首をかしげる。

(大丸 弘)