| テーマ | 着る人とTPO |
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| No. | 545 |
| タイトル | 軍国化から戦時体制へ |
| 解説 | いまは戦争中だという実感が国民のあいだにつよまったのは、物不足と配給の時代に入ってからだ。しかし明治以来、日本がつよい軍隊をもち、それによって外国に対し胸を張っているのだという意識は、敗戦以前の国民は、なんとなくでも、だれもがもっていた。男はだれでも20歳になると、ふんどしひとつで徴兵検査をうけ、2年間の軍務に服さなければならない。その期待は、男としての自覚を強めるのに役立ったにちがいない。女の子は縄跳びかおままごと、男の子はチャンバラか戦争ごっこ、という遊びかたのちがいも、その期待と無関係ではないだろう。 日清戦争(1894、1895)と日露戦争(1904、1905)の勝利は、つよい軍隊をもつ自分たち日本国民という意識の、根源になった。日清戦争当時10歳くらいだった中勘助は、「戦争がはじまって以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちゃんちゃん坊主でもちきっている。(……)唱歌といえば殺風景な戦争ものばかり歌わせて、面白くもない体操みたいな踊りをやらせる」(『銀の匙』1912)といった、小学校の雰囲気を回顧している。 こういった気持の昂ぶりは日露戦争で底入れされた。日常の着るものの手入れや、漬け物のハウツー書にすぎない小さな本の序文にさえ、こんな章句がみいだされる。 過去二回の外戦に、我軍の大勝を博した原因は多々ありましょうが、その主なるものは、上将軍より下一兵卒に至るまで、国家の前には何者をも見ないという、大和魂が然らしめたといって差し支えありますまい。(……)家庭は如何に之を培養すべきかと申しますと、軍国主義を執ることであります。(……)いつも軍国主義に処している心持ちで居りますなれば、この貴き民族的思潮は、ますます発達を遂げるに相違ありませぬ。 幼いあたまに擦り込まれた、大和魂をもつもののふの国、軍国日本というトラウマは、大正モダニズムの洗礼をうけても、エログロ・ナンセンスに酔っても、明治大正生まれの人々の精神を支える一本の柱ではあったにちがいない。 1920年代後半から1930年代(ほぼ昭和戦前期)にかけては、エログロ・ナンセンスと東京音頭の時代でもあったことはたしかだ。その一方1933(昭和8)年の満州事変では、捕虜になった陸軍少佐が、釈放後それを恥じて拳銃自殺したとき、友人の少佐はそれを当然として、敵に捕まったと聞いたときは、腹でも切れと言ってやりたかったと語った。おなじような例は他にもいくつか数えることができる。また寝過ごして朝の点呼に遅れた週番士官が、責任感から割腹自殺した事件、軍人ではないが、学校火災の折、天皇の御真影(肖像写真)を守るため犠牲になった小学校長、さらに女性の身でありながら、出征する夫が後顧の憂いなくお国に命を捧げられるよう、自殺した若い妻たちの例など、その時代の日本人のなかに存在した、思いつめたような精神状況は、それから80年を経たいまの日本人には理解しにくいだろう。 身近に軍隊も軍人も存在していたし、軍国日本という意識は濃い薄いのちがいはあってもだれもが共有していた時代なので、1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件にはじまる支那事変も、数年前の満州事変のつづきぐらいに考えて、多くの日本人はそれほど深刻には受けとめていなかったのではないだろうか。 1930年代後半(昭和10年代初め)はむしろ、大戦前の消費文化の高揚期だった。盛り場とデパートはいつも人波でごった返し、キャバレーや花街も有卦に入っていた。芸者のすがたは着付けのみごとさでも、ぜいたくな装飾品でも頂点に達し、それは雑誌【スタイル】などでも跡づけることができる。消費文化を支えたのは、ひとつには軍需景気だった。この時代の銀座のネオンの色やタンゴの調べは、5、6年後に、ジャングルで死を目の前にした学徒兵士の脳裏に、あざやかに残っていたことだろう。大衆娯楽の中心の映画はようやく成熟の段階に入り、邦画にも洋画にも秀作が目白押しだった。 人々が、これはいままでとはちがうと感じはじめたのは、1938(昭和13)年4月公布の国家総動員法以降、統制と配給の時代がはじまり、店頭から日一日と商品の姿が消えていくようになったときだろう。とはいえ、戦後の物不足や物価高騰のときのような不平や狂乱状態にはなりえなかった。お国のため、という言葉が元気に言い交わされていた。人々は素朴で、一生懸命だった。太平洋戦争がはじまってからは、欲しがりません勝つまでは、という標語が、苦笑まじりの合いことばだった。とぼしい物資―煙草でも、お汁粉でも、ひとつの店で販売する量がかぎられているので、長い行列ができる。人々は黙って行列にならんだ。もっとも、いろいろなズルをする人間はいたが。 大日本帝国のとなえた大東亜共栄圏という理念は、もっとも単純な受けとめかたをするなら小学生でも理解でき、狭い日本より、果てしもなくひろがる満州の沃土が、また太平洋戦争に入ると南の島々が、多くの日本人の未来をふくらませ、あこがれを誘っていた。 人々は軍歌をよく歌った。軍歌ではないが、1937(昭和12)年12月に発表された「愛国行進曲」は、軍歌調の2拍子で、小中学生も、大人も、この歌で歩調をとって歩き、気持ちをたかぶらせた。もし日中戦争当時(1937-1941)当時の歌謡ベストテンがあったとしたら、「軍艦マーチ」と「愛国行進曲」は、並んで5位以内に入っていたにちがいない。この時代、渡辺はま子の歌った「愛国の花」や、灰田勝彦の「鈴懸の径」、「新雪」に耳をかたむけると、そこに戦後の歌謡曲ではあまり出会わない、さわやかさを感じるのはなぜだろうか。そのさわやかさとは、初冬の朝の空気のようにはりつめた、無垢な単純さをもっているように思える。車も少なくなった街の空は澄んでいたし、ネオンサインの消えた夜の空には、大都会でも銀河がはっきり見えた。 そんな時代の、きまじめなひとの気分に、パーマのもじゃもじゃ髪はそぐわなかった。ほんらいパーマネントウエーブは毛髪をセットしやすいように変質させる処置で、ヘアスタイルとは直接関係ない。実用的には髪の毛の処理がかんたんになるので、忙しい生活や、働く女性には適している。そのことを理解していた行政は、最後まで、パーマネント自体を禁止するような愚を犯していない。電力が逼迫してきたときは、代わりに木炭をつかったパーマが工夫されている。問題は、かけっぱなしの状態のソヴァージュ(sauvage)なヘアスタイルだった。雀の巣といわれた。このスタイルを好むごく一部の女性のために、パーマ全体が、いわれのない非難の的となったのだ。もっとも一般的だった内巻などとくらべて、ソヴァージュの雀の巣は、その時代の人の気持ちを、いわば逆撫でするように受けとられた。 (大丸 弘) |