近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 544
タイトル 家族と家庭の変容
解説

娘や息子が外に出てゆくときのかっこうを、母親や、ときには父親が気にする正当な基準は、今どきの流行でも自分の趣味でもなく、うちの子ども、もしくは自分の家族のひとりとして適当かどうか、という点にあるのがふつうだ。何々家のお嬢さんとか、魚屋の娘、といったアイデンティティは、かつてはきわめてつよかった。また、子どもにそれを強要する、父親の権威もつよかったのだ。

明治・大正期の婦人雑誌を見ると、教育者とか名流夫人とかいう婦人たちの、人々の衣生活についての助言は、なにかにつけて身分にふさわしいものを、身分をわきまえて、であった。もちろんその身分とは、厳密にいえば自分一個人の身分を指しているのではなく、父親なり夫なりがあるじである家族を指すのだ。

そんな、この時代の人たちの、家族の意識を支えていたのが明治民法だった。フランスの法学者ボアソナードの指導のもとに、わが国で最初につくられた1890(明治23)年施行の民法を旧民法と称する。その内容が日本の国情に合わないという批判をうけ、1898(明治31)年に、とくにその「第4編 親族」、「第5編 相続」に関して、わが国の家族制度に合致するように大幅改正をほどこした。一般にはこれをさして明治民法と称し、第二次大戦後の1948(昭和23)年、新憲法にもとづいての全面改正以前、日本人の家族関係を支配し、人々の思想の基盤になっていた成文法がこれである。

明治民法によれば、家督、および財産はひとりの家長(戸主)によって相続され、それは嫡出の長男が優先する。法定家督相続人は相続を放棄して家名を絶やすことは許されず、相続人である戸主は祖先の祭祀の責任を負うことになる。この条項の拘束のため長男と長女の単純な結婚は不可能であり、どうしてもという場合は、一方がべつの相続者をたてて隠居するというような、面倒な便法を用いるしかなかった。家という概念はじつはかなりあいまいなのだが、ともあれ家の維持や名誉は個人に優先したから、家名を傷つけないためには、場合によっては実の父親でも排除する(徳田秋声「心と心」大阪朝日新聞 1915/2/20~)といったこともありえた。

家督、財産が家長ひとりのものというばかりでなく、家族の行為はなにかにつけて家長に制約され、その意志のもとにあった。婚姻の有効となるのは男子満17歳、女子15歳だったが、男子30歳、女子25歳までは父母の同意を必要とした。明治民法制定当時の法律学者のなかには、この年齢規定自体が戸主の権威をそこなうものとして、反対した人もあった。家長――現実には多くは父親であった――の権威は家族のなかでは絶対だった。明治・大正期の家庭小説にとりあげられた悲劇では、その権威を笠に着た横暴な父親であるとか、無理解な両親のもとにおかれた、若い男女の悩みが中心になっている例が多い。その親の世代は、大きく社会の変化するときの、旧思想の持ち主であり、代弁者なのだが、その古めかしい親の言い分は、法律的にはたいていの場合正当で、息子や娘の側に勝ち目はなかった。

父親の権利がもっとも露骨なかたちで示されるのは、家庭のなかでの妻妾の同居だった。この実質的なポリガミー(polygamy 一夫多妻)の習俗は、家系の維持、とくに男子相続の要請がその背景をなしていた。嫁して三年子なきは去る、といった女訓が死んではいなかった。五年経って妊娠の兆候がなければ、妾を容れること、それを妻が奨めることさえも、べつにふしぎなことではなかったらしい(小杉天外「二つの太陽」国民新聞 1922/1/1~)。そうしたポリガミーの寛容さの結果としての、腹ちがいの兄弟や姉妹の存在が、しばしば家の相続時の、悶着の火種になった。

ところで、自分の娘や妹を、娼妓や芸者に売る――、というもっともありふれたすじがきの場合、その行為を是認する民法の家長権の条文が、父親や娘のあたまのなかにあったわけではあるまい。親がなにかにつけて口にし、子どもを縛った呪文は、養育の大恩、なのであった。親の恩という文言は民法のどんな条項にも見いだされないが、民法などというものがあることも知らない民衆でも、恩を返すためには父母に孝養をつくし、父母のことばにはけっして逆らってはならない、という「人の道」は教えこまれていた。民衆の心のなかを日常的に拘束していたこのような信念は、人々の心情にすりこまれた体制、というべきかもしれない。したがって小説作品のなかでの現実としては、名目上の戸主の権威以上に、親の立場の方が圧倒的につよかった。

結婚は家のため、という考えかたに対しては、すでにこの時期の最初から批判はあったが、家のためというやや漠然とした根拠よりも、子女の配偶者えらびには、親の考えが先行するのは当然のことだった。現実には、親の眼鏡にかなった相手を、息子や娘が拒否するようなケースは、そう多くはなかったのかもしれない。親たちもまたおなじ時代の空気を吸っているのであり、子どもの希望をむげに無視する親ばかりではないだろう。

東京の三輪田女学校の教務主任が「両親の命に背いて、自分の望みに任してまで結婚したような者は一人もありません。皆温順に両親の命に従って、その選定にも自分の意志が三分に両親の意志が七分と云うような傾向です」(「両親の命の儘」読売新聞 婦人附録 1915/3/12: 5)と、取材に応えているのが1915(大正4)年のこと。

親たちの世代の抱いている標準的な親子、また家観念も、この期間の前半と後半とでは同一ではない。ハリウッド映画や、通俗恋愛小説の洗礼を、親も子もさんざん浴びたあとの1930年代(昭和戦前期)でも、いやそれだからなおのこと、娘の恋愛沙汰に不快感や危険意識をもつ親がいることはふしぎではないが、それはかつての、家族制度の権威を鎧にしていた反感とは、ニュアンスのちがうものだ。

若者たちの多くも、いじらしいまでに、アメリカ映画のまねは避けようとしているようにみえる。婚約者、恋人同士の交際に関して、新聞小説にも、投書や、身の上相談にも、しきりに「清い交際」という表現が好んで使われているのは、ほほえましい。

(大丸 弘)