近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 543
タイトル 組織と女性たち
解説

家から外に出ての女性の社会的活動のはじまりは、職業に関するものをべつにすれば、上流婦人たちによる慈善活動だったかもしれない。いわゆる鹿鳴館時代、仮装舞踏会などの馬鹿騒ぎのまえに、舞踏会にも加わる夫人令嬢たちのなかの、有志の人々によって、手製の工芸品などの慈善バザーがひらかれた(→年表〈事件〉1884年6月 「婦人慈善会」時事新報 1884/6/10: 2 ほか)。その売りあげを恵まれない人に寄付するのが目的だった。しかしこれは3、 4回で終わってしまったし、組織といえるほどのものはなかったろう。

もっとも単純なかたちとしては、女子交際会というものが生まれている。女性にも男性とおなじように、ひろく交際する便宜をはかろうというのが目的で、1886(明治19)年という早い時期に発足、ある男性が発起人だった(→年表〈事件〉1886年4月 「女子交際会、設けられる」読売新聞 1886/4/25: 2)。その後どうなったかはわからない。たいていは同好会的な性格をもつものだが、小さな交際グループというものは、とくにそんな看板をあげなくても、現代にいたるまで無数にあるはずだ。欧米、とくにイギリスには、会員を限定したかなり閉鎖的なクラブが発達している。会員同士がほとんど口をきかないのが規則、というクラブのことは、シャーロック・ホームズの「ブルース・パーティントン設計書」に紹介されている。

暇と金に不自由のない上流階級の女性たちにとって、なにかの会合のための外出は貴重な気ばらしだったろう。上流階級にかぎらず、会、というものがたくさん生まれたことは、身内の婚礼や法事ぐらいしか、大ぴらに外に出る機会のなかった多くの家庭婦人にとっては幸いだった。さらにそれがいくぶんか、社会的意義とはいわないまでも目的をもったものであれば、胸を張って家を出やすいし、着るものにも念を入れる甲斐がある。

1890(明治23)年に、日本赤十字の看護婦会と同時に設立された篤志看護婦会は、だれにも理解されやすい社会的意義をもった、初期の婦人組織だった。会員の上流婦人が、じっさいに手を血に染めて傷病兵の看護に当たるようなことはなかったが、おもに包帯捲きのような作業を担当した。むしろそれより、あれが毛利伯爵夫人とささやかれるような知名の夫人たちが、赤十字の腕章をつけて、本職の看護婦に立ち混じっている姿が、当初、あまり理解されていなかった看護婦のイメージアップに貢献したといわれる。

最初の全国的規模をもった婦人団体のひとつは、基督教婦人矯風会だろう。岡山では最初、婦人禁酒同盟として発足したように、かなり限定的な目標を掲げてできた、各地の基督教主義に基づく集会が、矢島楫子(かじこ)のもとに結集して、1886(明治19)年に発足した。基本的にはプロテスタンティズムの思想的背景をもっていたため、禁欲的で、陰気な、眼を三角にして人のアラ拾いをする、老婦人の集まりのように誤解もされた。キリスト教の教義には、ごく素朴な理屈のうえで日本の天皇観と融和しにくい点がある。そのため矢島楫子たち会のリーダーたちは、ことあるごとに日本の国体を讃え、皇室への忠誠を誓っている。第二次大戦中には日本基督教団さえ、軍部と戦争に迎合的ともいわれかねない姿勢があったのだから、この時代の婦人団体としてはやむをえない限界だったのだろう。

国家の方針に忠実に添い、ときには行政のお抱えのようになりがちだったのは、わが国近代の婦人団体の特色だったともいえる。その代表的な例が、1901(明治34)年、傷痍軍人の慰問・救護を目的として設立された、愛国婦人会だった。庶民の印象からいえば、愛国婦人会というと、東京で年1回開催される全国大会の盛大さが際だった。愛国婦人会は婦人会のなかでも最も多い会員を抱えていた。会員証を持っている人は辺鄙な町や村にも何人かはいた。全国大会にはるばる出かけるのは役員だけだったが、それでも会場外の日比谷公園や宮城前広場は、その時代の女性民間礼装である白襟黒紋付のオンパレード、という印象があった。そして会場の一段高いところには、かならず白い宮中服姿で、大きなブリムの帽子をかぶった、皇族方の姿があった。愛国婦人会は創始者の初代会長奥村五百子(いおこ)のあと内紛が多く、そのせいもあってか箔づけの総裁やトップメンバーに、皇族の女性を推戴するのが常だった。

1913(大正2)年の【婦人画報】の「現今交際社会の中心婦人」で紹介されている婦人団体は、愛国婦人会のほか、大日本婦人教育会、陸海軍将校婦人会、大日本婦人衛生会、日本赤十字篤志看護婦会だ。それぞれに組織名にふさわしい設立趣旨をもってはいるが、たとえば大日本婦人教育会が、「上流の婦人がお互いに親睦をはかり、知識を交換すると云うのが目的(……)」といっているように、平時にはべつに具体的な活動があるわけではなく、日本のハイソサエティの社交の場だった。

5年後の1918(大正7)年、【婦人画報】は再び「帝都に於る婦人の社交団体」という調査を掲載した。記事の冒頭につぎのような前説がある。

奥様又は家内という語が、その真体を現し、婦人が閨門の内にばかり蟄居していたのは既に過去のこと、この聖代の今日では、婦人といえど社交場裡に現われ、社会の表面にも出ている。
(坂本紅蓮洞(ぐれんどう)「帝都に於る婦人の社交団体」【婦人画報】1918年12月)

このとき調査の対象になったのは36団体で、そのうちのいくつかは1913年以前にも存在していたことは確かだ。

2回目の調査結果による婦人団体の性格の特色は、「分類してみると、宗教や修養に関するものが最も多い。(……)宗教修養、及び博愛慈善のものとを合すれば、婦人団体全体の三分の二に該当する」という点にあるらしい。この事実は、社交の場として発展している欧米の婦人組織に比べてみると、きまじめで優等生的、むしろ陰気にさえ感じられ、そういう意味では、わが国の社交の場は、欧米のそれとはかなりちがう様相をもっていた。

かつて三越のある重役が言った。わが国では、ファッションリーダーの資格をもつ富裕層の女性が、せっかく高額の衣裳を手に入れても、それを見せ合う場がない。せいぜい帝劇の廊下ぐらいしか、わが国にはファッションステージがない、と。これらの婦人団体の会合は、その欠落を埋めそうなものだが、結局その役目を果たすことはできなかった。ある外国の外交官が言っているように、日本のこうした社交的な会合には、それが舞踏会であっても、若い女性の姿が少なく、ちんまりと椅子に座って立とうともしない、年輩の婦人方で占められていることが普通だったらしい。

そのことはなにも舞踏会の場だけのことではない。婦人団体の「顔」になっているのは華族か、古手の学校経営者、あるいは社会教育家である老婦人がほとんどだったから、ファッションステージなどと縁がなかったのは当然だ。そのなかで、西本願寺仏教婦人会の顔だった九条武子などは例外と言ってよい。

(大丸 弘)