| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 542 |
| タイトル | 雨の日 |
| 解説 | 地球上には日本以上に雨の多い地域ももちろんあるが、生活文化の多くを学んだ中国もヨーロッパも、概していえば雨の量はわが国よりかなりすくない。因みに東京の年間総雨量は近年の平均値で1466.7ミリであり、これに対してパリは647.6、ロンドンは750.6、北京は575.2。もっとも中国は広いので、沿海部の上海では1155.1ミリの雨量がある(『理科年表』2009)。 ヨーロッパで生活していると、彼らが雨に濡れることを日本人ほど気にしていないのに気づく。それは雨の降りかたにもより、着ている衣服の素材のちがいにもよるだろう。地厚な毛織物は内部まで水分を浸透させにくい。またひとつには大きな石造建築は雨の日でも部屋のなかは比較的乾燥していて、濡れたコートなどがすぐ乾いてしまう、ということもある。それに対して絹ものはぬれることをきらう。着つづけたきものの襟や袖口がよごれても、日本人はできるだけ洗わないようにして、その垢を刃物などでこそげ落としたり、揮発油でこすりとったりしていた。一度でも水をくぐった絹きものは値うちが半減する。そのために日本の洗い張り屋、悉皆屋のしみぬき技術はきわめて高度なものになっている。 新国劇の看板演目《月形半平太》のなかで芸者の雛菊が、「月様、雨が――」というのに対し、半平太は「春雨じゃ、濡れて参ろう」と言いすてて出る。戦前生まれのひとだったらたいていは何回か使った覚えのあるはずのこのセリフだが、幕末の勤王家の、あすの命の知れない気分を、汲みとることもできそうだ。 雨の多いわが国には、雨を愉しむ文化もあった。現代の鉄筋マンションのなかでは、外に出てみるまで雨が降っているかどうかわからない。しかしこれはかつての藁葺屋根でも同様だった。平安時代の公家たちが住んでいた寝殿造りでも、屋根は厚い檜皮葺きだったため、やわらかに降る雨音は、母屋に垂れこめていては聞こえない。そのため外にむけて薄い板廂をふかく張りだし、その下を廂の間とよんで、軒端を叩くしずかな雨音に耳を傾けたという。 子どもたちにとって雨の日は楽しいものではないが、例外は北原白秋、中山晋平による童謡「あめあめふれふれ」のような情景だろう。この歌が発表された1925(大正14)年頃であると、母親のさしているのは「大きな蛇の目」で、その時代のたいていの絵本の挿絵では、母親はコートを上に着たきものすがただった。その蛇の目傘からも防水をしたコートからも、温かい湿気をふくんだよい匂いがしたはずだ。 愉しむというのとはちがうが、軒廂の下の雨宿りもものがたりの発端となりやすい。呉服屋の若旦那が用足しに行った向島で俄雨にあい、知らずに飛びこんだ軒先がお得意の、おそらくお妾さんの小ぎれいな住まいで、気づいた女中に呼びこまれる、というのは六代目桂文楽のよくやっていた「夢の酒」だ。余計なことだが、ここで文楽は大黒屋の若旦那と言っていた。大黒屋などという屋号はめずらしくないが、日本橋橘町1丁目の大黒屋といえば、明治大正時代の寄席の客なら、越後屋、白木屋と名声をきそった大黒屋野口彦兵衛、俗にいう大彦をすぐ思いうかべただろう。 雨の日の外出にはもちろん差し傘が要る。江戸時代も前半期には差し傘はまだ贅沢品で、農夫はいうまでもないし、町住まいの人でも蓑に竹の皮製の被(かぶ)り笠、というすがたがふつうだったようだ。 よく知られているように江戸の山の手辺、下級士族の居住地域は、日本最大の傘の生産地だった。そんなこともあって明治時代にはすでに、どんな貧乏人でも安物の番傘の一本がない家はなかったろうし、そう不自由のない暮らしをしている町人層では、男も女も雨天用の合羽を持っていたと思われる。 合羽というといまの人はすぐ、木枯らし紋次郎が着ているような引回し合羽を考えるかもしれない。旅人などの用いる引回し合羽の形は、近世初期にポルトガルの宣教師たちがもたらした「カパ(capa)」の正統な後継だが、幕末から明治にかけては、桐油びきした雨衣をかたちにかかわらず合羽といっていた。とりわけ女ものの合羽はきもの風の構造で、ただし丈が長く、打ち合わせを小紐で結ぶという点が特色だった。 1890年代(ほぼ明治20年代)以後、被布風の襟をつけた羅紗製のいわゆる東(吾妻)コートが大流行し、これ自体も羽織にくらべれば雨にはずっとつよかったが、さらに防水を施した雨天用コートが生まれた。もっともその一方で、きものを着るひと自体の数が減りはじめたため、戦争に近づいた1930年代(昭和5~15年)でも、あめあめ降れ降れのお母さんのように、雨の日専用コートを持っていた女性は、それほど多くはなかっただろう。 それに対して1930、40年代(ほぼ昭和5年以後)に、サラリーマン男性のあいだに定着したのがレインコートだった。すでに1913(大正2)年に、「両三年来レーンコートの需要が著しく多くなって、英国の本場物が大分輸入されるようになった」という記事がみられる(読売新聞 1913/6/3: 5)。それが20年後、[東京日日新聞]は「晴雨どちらへも向くスプリング兼用のレーンコート」という大見出しの特集を組み、「お天気の日にレーンコートを着て歩くのは日本人ばかりだ――などと、知ったかぶりの〈通〉をいうのは誰だ!日本人には日本人流の服の着方が出来ている」と居直っている(→年表〈現況〉1934年4月 「スプリング兼用のレーンコート」東京日日新聞 1934/4/19: 8)。たしかに、この時期以後のレインコートは雨衣としてではなく、合(あい)コートとして定着して太平洋戦争後も変わらず、その傾向は洋装する女性にもおよんでいる。 あめあめ降れ降れのお母さんは、蝙蝠傘のほかに、もうひとつだいじなものを手にさげてきていた。それは長靴だ。戦争まぢかな時期になっても、東京・大阪の道路の悪さはほとんど改善されていなかった。とりわけ郊外から通うサラリーマンや学生は、雨や霜解けの日は駅やバス停までは高下駄や長靴でゆき、それから短靴に履きかえる人も少なくなかった。ゴム長靴の普及は1920年代の後半(ほぼ昭和初期)からで、とりわけ学校に通う子どもにとっては必需品になった(→年表〈現況〉1925年2月 「雨の日の東京の道路と履物」時事新報 1925/2/18: 2;→年表〈現況〉1927年12月 「雪の郊外の救世主〈ゴム長〉時代来る」東京日日新聞 1927/12/12: 11)。 (大丸 弘) |