近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 541
タイトル 衣更え
解説

寒暖の変化に応じて着るものを変えるのを衣更えという。たいていの文明国には多少とも季節変化があるから、衣更えという行為自体がまったくない衣文化はすくないが、日本のように、暦の上できっちりと決められていた国が、ほかにあるだろうか。

住まいの夏の装いを冬の装いに変える、という必要がある場合、宮廷のような大きな世帯では大仕事になるから、毎年一定の日にきめておいた方が都合がいいだろう。日本の古い時代には、衣服も調度も区別せず装束といい、室町時代ぐらいまでの故実書をみると、装束記載の多くは調度、つまり室内装飾に関することだ。

今日でも学校や職場の制服類は更衣の日が一定している。人によってちがうものを着ている期間があるのでは、ユニフォームの意味がないし、期日をきめておいた方が都合のよいことがある。故実書にある更衣は、宮中、あるいは殿中における、制服についての規定だったのだ。

風俗には貴人の習慣を、平民が倣うというパターンも多い。季節的更衣そのものには貴族も平民もないが、期日を遵守する、という習慣は貴族の、後世には武家社会の、つまり支配階級の殿中での制度を、その必要もなかった一般大衆がまねて、みずからを拘束した習慣、ということになる。

江戸の風習を受け継いで、明治の初めに守られていた衣更えは、4月1日になると綿入を袷に変え、5月5日からは単衣となる。秋は9月1日から袷になり、9月9日、または10月1日から綿入、というのがふつうだった。やがて舶来の毛織物がそのなかに割り込んできて、5月はセルやフランネルを用いる習慣が、1890年代(ほぼ明治20年代半ば)には定着する。

四月一日という変わった姓があり、ワタヌキと読むのは有名だが、いまではふつう綿貫と書いている。正確には綿抜と書くべきだろう。むかしの人はきものの持ち数がそうなかったので、暖かくなると、冬のあいだ着ていた綿入きものの中綿を抜いて袷きものにし、暑くなってくるとこんどは裏をはがして、単衣にして着る、という手間をかけている貧乏人もあったというから、衣更えも手がかかる。貧乏人の衣更えのべつのパターンは、春先に冬物をまげて――つまり質入れして、そのかわりに袷か単衣を受けだし、その差額を懐に入れる、という手だったという(→参考ノート No.604〈古着/古着屋/質屋〉)。

綿入れとか袷、単衣ものといっても、綿入きものを何枚重ねるとか、10月頃の二枚袷とか、単衣の地質をなんにするかといった、細かいきまりのようなものまでいつの間にかつくりあげ、もちろんそんなものは身分や地域、あるいは家によってもちがうだろうし、だいたいが呉服屋のつくりあげた趣味やきまりごとなのだが、とにかく覚えこんでいるものに頑固に固執するひとが多かった。

日付やスタイルへの忠誠心はべつとして、日本のような風土では、洋服であっても季節の衣更えはある。冬のコートを出した日、しまった日ぐらいをカレンダーに書きこんでおくのは、衣裳もちのひとにはむだではないかもしれない。

衣更えに関しては世の中にひとつの誤解があった。それは旧暦が新暦に変わったため、衣更えの習慣が崩れた、と言うひとがある。明治5(1872)年12月3日が、明治6(1873)年1月1日となることが、太政官布告によってきめられた。この新しい暦は外国の暦を採用したものだ、だからこれは日本の風俗習慣には合っていない、という思込みが、一部にはあったらしい。

いわゆる旧暦は、月の満ち欠けによって1カ月――29日か30日かがきまる。1年はそれを12倍する。だから1年は360日弱にしかならない。じっさいの1年に5日以上不足するので、何年かたつと、暦の月日と、季節とがずれてくる。暦の上では4月なのに、ほんとうの季節はもう5月になっている、というふうに。これを何年かに1か月、閏月というものを挟んで調整した。旧暦時代に、まだ3月だというのに日ざしがつよく、しかし4月1日になるまでは綿入で我慢した、などというはなしがよくある。新暦だったら、もう4月に入っていたかもしれない。旧暦時代はこの矛盾を二十四節気で多少補っていた。二十四節気は太陽の運航にしたがって1年を24分割しているから、大寒といえばいちばん寒いころ、処暑といえば暑さがちょっとやわらぐころ――というふうに。しかし衣更えは二十四節気とはなんの関係ももたなかった。

更衣も昔時は其の時々の衣服の掟がございましたから、まだ肌寒くて風邪を引く端午の節にも、単衣を着なくてはならず、重陽の節句には汗をだらだら流して、綿の入った衣を着ることと極まって居ましたから、商売が楽でしたが、太陽暦に改まると同時に、衣服の制度がなくなって各自の勝手になりましたせいか、世間はいろいろで、九月に入っても白地の浴衣を着て居る人もあれば、十月の半ばに単衣に袷羽織を引掛けたり、袷、セル、フランネル、綿入れを着る等千差万別で、唯見ないのは帷子ばかりで、単衣から一足飛びに綿入れになる者もあって、呉服店は商売がしにくくなりました。
(「冬の支度」【文芸倶楽部】1904/10月)

この松坂屋呉服店員の談話も、いま言った誤解だ。太陽暦は名前のとおり太陽の運航にしたがっているのだから、今年の4月1日は、去年の4月1日と、お日様は天のおなじところにいる。年によっての暑さ寒さのちがいはしかたがない。暦が変わったから、衣更えの日も滅茶滅茶になった、という誤った思いこみがなぜそんなにひろがったのだろう。新しい暦にしたがって生活しながら、古い暦日をわすれることなく、衣更えについては旧暦の日付を守っている人もけっこういたという。透綾とか明石のような透き通るものは、7月1日から8月末まで。9月1日になると、透いたものを着ていては笑われた。10月1日は、袷の衣更えの日。この習慣は厳しく守られていて、一日もゆるがせにはできないと考えられていた。このような忠誠心は、これはもう服装へのこだわりというより、現代人にとって理解しにくい時代精神の問題のようだ。

(大丸 弘)