近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 540
タイトル 冬を過ごす
解説

江戸時代末から明治初年にかけての日本の気温は、正確な比較をするデータはないが、現在より1度以上低かったようだ(→年表〈現況〉1869年x月 「ヘボン博士による横浜の気象計測記録(1862~1869年)」東京日日新聞 1874/7/27: 1)。とりわけ雪が多く、豪雪のため東京市内の交通が途絶したことも何回かあった。

そんな寒さに対する備えはというと、今日の常識からみれば話にならないほど、貧しかった。木造の建物はすきま風が入りやすく、また、火事の心配から十分な暖房ができなかった。火鉢があっても、たいていは手先を温めるだけの役にしかたたない。裕福な人々は、厚く綿の入った衣服を重ね着することで寒さをしのいだ。そうでない人は、寒さを辛抱した。外国人医師は、火鉢や炬燵は炭酸ガスが出るので健康に害がある、と警告しているが、すくなくとも開化期には、健康に害のあるほど火鉢で室内の温度をあげることは、まずできなかったろうし、しようともしなかったろう。寒さを我慢することも、貧乏人にとっては一種の防寒法だった。ひび、霜焼け、あかぎれは、たいていの子どもや、水仕事をする女性たちがもっていた。

寒さに耐えることは、人間形成の役にたつと、信じられていたようだ。たしかに、皮膚は慣れによって、ある程度までは寒さに耐えられるようになる。力士が寒中でも裸でいられるように。しかし乃木大将が二人の息子に、寒中でも足袋をはかせず、素肌に袷のきものだけで、襦袢を着せなかった、というしつけは、風邪をひきにくくする、というような次元の低い意図からではないらしい。年中一汁一菜で押し通させたのとおなじく、もっと高邁な理念があったにちがいない。そういう理念は乃木大将だけではなかった。明治・大正期の多くの学校でも、似たような人間形成の手段が信じられていたようだ。女子教育でさえ、たとえば東京目白の成蹊女学校では毎日始業前に、全生徒が、たとえ雪の日でも単衣もの一枚に裸足という恰好で、長刀の稽古をしたという(読売新聞 1918/12/12)。

家の中が寒いため、雪の降っている外へ出てもそれほどの気温差がなく、それで防寒用の外衣が発達しなかった、という考えかたがある。江戸時代の人は防寒外衣といっても、綿入羽織か雨用の合羽ぐらいしか知らなかった。トンビのたぐいが入ってきたとき、とびついたのも無理はない。

三つ襲(がさね)や二つ襲というと礼装のようになってしまったが、ほんらいは裕福な人々の、あるいは身分ある人々にのみ許された贅沢きものだった。火の気のとぼしい日本座敷は、東京あたりでも厳冬には10度をいくらも超えなかっただろう。しかし襦袢の上に綿入小袖を三枚襲(重)ね、さらにそれに綿入羽織を着ることができる。綿入羽織は袂にまで綿が入っているから、膝をあわせてすわり、その膝のうえに袖を重ねあわせれば、まるで布団でも着ているようになる。この時代の人がめったに膝を崩さなかったのも、行儀のせいばかりではなさそうだ。

綿の入るのはもちろんきものや羽織、どてらのたぐいばかりではない。外に着るきものと襦袢のあいだの厚綿の胴着類は、とりわけ貧乏人には欠かせなかった。綿入れの胴着と、おなじく綿の入った股引がつなぎになっている狐胴着のようなものは、女学校で教わる裁縫書にはあまり登場しないが、それぞれの家庭で、女たちのさまざまな工夫のヴァラエティがあったにちがいない。この時代の人が洋服は寒い、と感じるのも無理はない。

ただし、この布団でも着ているようなすがたが美しいとは、明治の女性でも思わなかったろう。時代が下がるにしたがい、たとえ三枚襲であっても、「若き女の小袖はなるべく綿を薄くして、下着は裾と袖口、脇あけの袖の方とにのみに綿を含めて、胴は袷に仕立てるをよしとす」という方向にむかう(→年表〈現況〉1897年10月 「綿入と三枚重」【太陽】1897/10月)。

綿のたっぷり入った襲小袖が廃れてゆく一方で、医師たちの忠告をまじえて、いろいろな防寒対策が提案されるようになった。防寒具ということばが盛んに用いられだしたのが、1910年代(明治末~大正初め)のことらしい。毛糸の襟巻とか、毛皮とか、また下着として毛織物やフランネルを利用すること、とくに女性にたいし、股引をはくことが推奨されるのがこの時期だった。

1919(大正8)年という年に、「今から十年ほど前には、よそ行きにも綿を入れる習慣がありました(……)」という回想が語られている。綿入の襲ね、というのではなく、綿入自体がどんなきものからも廃れてゆく。それと交代に流行しはじめたのが毛糸編の服だった。それはだいたい関東大震災(1923)のすこし前、と考えられる。

今秋の流行界の、著しい、誰の眼にもつくのは、恐らく毛糸製品の流行でありましょう。全く驚くほどの売れ行きを極めているのがこの毛糸製品で、敢えてこの現象は、流行の魁をなすと云われる銀座街頭に限ったことではないのです。
(「風靡する毛糸製品」時事新報 1922/11/22 :7)
この頃家庭であれ小学校であれ女手芸の一つとして毛糸編物が盛んに流行する(……)この流行で毛糸屋さんはどこも大繁盛(……)。
(「新流行の毛糸編み」朝日新聞 1922/11/28: 夕2)

とくに毛糸編の赤い腰巻が、中年以上の女性には圧倒的好評だった。そしてまたこの都腰巻くらい、男たちを辟易させた衣料もすくなかったろう。

寒さを防ぐというだけでなく、冷えによる内臓疾患、とくに婦人科系の――をひきおこさないため、という観点からの、腹巻とか、女性の股引の普及に対し、それはかえって身体の抵抗力をなくすので考えもの、という反対があった。

女性の洋装化にとって、洋装は寒い、洋装はしょせん夏のもの、という思いこみが長くつづいているのは、今日からみればふしぎだ。大衆の洋装化の時期がたまたま1920年代の、欧米のショートスカートの時期にぶつかったのも、そのひとつの理由だったろうが。

時代はとんで1930年代末(昭和14年以後)、日本人は物不足というはじめての経験に出逢った。配給の炭も練炭ももちろんじゅうぶんな量はなく、器用な人は40燭の白熱電球の熱を利用した炬燵を工夫して、わずかの暖をとるような始末だった。寒さに抵抗力をつけるため、乾布摩擦が奨励された。そんなとき、明治生まれの老人が、意外に寒さに辛抱づよいことを発見したりした。寒さを凌ぐきものの着方、という新聞の家庭欄記事はこんなことを言っている。

スフの下着は冷たく保温性に乏しいといわれますが、これも仕立てにヒダを多く入れるとか、又重ねて使用し、その間に暖かい空気を込める様にすると保温性は著しく増すものです、(……)その意味からはシャツや下着の間に日本紙の揉んだものか、無ければ新聞紙でも入れるとずっと違うものです。
(「寒さを凌ぐ着物の着方」朝日新聞 1939/12/27: 6)
(大丸 弘)