テーマ | 着る人とTPO |
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No. | 539 |
タイトル | 夏を過ごす |
解説 | 過去150年のあいだ、気温に関するニュースでは、冬の寒さより夏の暑さを報道する記事の方がはるかに多い。1932(昭和7)年の[都新聞]への投書に、いまの東京は明治時代より暑くなったとして、その原因を樹木の繁茂した土地が切り開かれてコンクリートの建物やアスファルトの道路に変わったためではないか、と指摘している読者(老人)がある(→年表〈現況〉1932年8月 「投書―東京の暑さ 昔より酷い」都新聞 1932/8/1: 1)。 ヒートアイランド現象については、すでにその前に、たとえば1930(昭和5)年の[朝日新聞]に、「近代都市となったおかげで酷熱化した東京市街」という解説記事がある(→年表〈現況〉1930年7月 「近代都市化と酷熱」朝日新聞 1930/7/16: 11)。 暑さをしのぐための工夫としては、戸、障子を開けはなして風を入れるというのが、ふつうの方法だ。柱構造の日本家屋はその点では便利で、いわば建物そのものがもともと夏座敷風だ。加えて気化熱を奪わせるために、家のまわりにうち水をする、という習慣も定着している。桂米朝の思い出によると、戦前の大阪の寄席では、休憩時間中に屋根から瀧のように水を落としたという。 夏の風情は、掃き清められた前栽、すがすがしく打ち水したるに、風ひとわたり深緑の梢をかすめて、縁の端の簾(すだれ)を訪いながら、風鈴の音を誘う夕暮れに如くものはありますまい。こんな夏座敷の風趣は、全くわが国独特のもので、欧米式の住まいでは到底味わうことはできませぬ。 庶民の家庭でほかにできることといえば、襖を外して、代わりに簾を掛けるくらいのことだったが――。簾の上等品は伊予簾といい、極細の竹を使って編んだ、工芸品のように繊細なもの。 夏の夕暮れなどに、下町のちょっと人通りのすくない裏道などを歩くと、ほのかに漂ってくる蚊取り線香の匂いと、どこもかも開け放しの家のなかで、うすべりに横になって団扇を使っているひとや、生垣の蔭のちょっと見えにくいところで、行水をしているひとの白い背中が、ちらりと見えることなどがあった。こういう情景は明治も昭和も変わりなかったし、地域によっては第二次大戦後も、家庭に空調器が普及する以前は、そのままつづいていた。 あたらしく加わった夏の道具といえば、家庭でもオフィスでも大戦前は扇風機ぐらいのものだった。1897(明治30)年には電気扇の名で国産扇風機が現れ、かなり早いピッチで普及したようだ。商品名としては「涼風機」とか、「自動清涼機」という言いかたもあり、また「煽風機」というむずかしい字を使うこともあって、これでは却って暑そうだ。もっともこの時期には、家庭に電気はひけていても、夕方以後だけの定額契約がふつうだったことがネックになってはいたが。そのためか1904(明治37)年に発売された自動清涼機は、7月22日の[朝日新聞]紙上の広告で、「巧妙なるゼンマイ仕掛けにて従来の電気扇のように電気いらず実に便利です」と宣伝している。オルゴールではあるまいし、ゼンマイでどの程度の風がでたのだろう。 室内冷房装置に関しては、1924(大正13)年6月25日から文部省東京博物館で開催された衛生工業展に、「室内の空気を冷たくする装置」として試作品が出品された。この詳細はわからない。[東京日日新聞]によると、夏季でも機器保守の必要上部屋を開放するわけにいかない電話交換局で、アドソール冷房を設置することになったと報じている(→年表〈事件〉1924年7月 「電話交換局にアドソール設置」東京日日新聞 1924/7/23: 29)。これは先ごろの特別議会の議場で試験して、非常に好成績だったというから、あるいは衛生工業展の出展物とおなじものかもしれない。いずれにせよこの冷房装置は、戦前にはそれほどの発展はなかったようだが、この翌々年の1926(大正15)年に、永井荷風が日記のなかにつぎのようなことを書き残している。 帝国劇場観覧席床下より化学作用にて冷風を吹上げ、場内の空気を転替せしむる仕掛けをなす。初めは涼味を覚えて心地よけれど、長く席にある時は肌身ひやひやして気味悪しくなるなり。この装置目下市中この芝居よりほかにはなき由なり。 十分な空調がむずかしかった大戦以前の大衆は、半日だけの涼味ではあったが、海水浴にはマメに出かけている。東京横浜大阪神戸が臨海都市であるうえ、その海岸線が、まだそれほどには工業化されていなかったことも幸いした。首都圏の場合であると、大磯、三浦半島など湘南地域の、海水浴のための開発も一方にはあったが、もともとこのあたりは春の潮干狩りが盛んだった。隅田川河口から大森、蒲田の浜、横浜でいえば本牧、磯子の浜、そのあたりの水はきれいで、アサリやハマグリがいくらでも採れた。大潮のときなどの浜辺は、『半七捕物帳』の「海坊主」にもあるような賑わいだった。けっこう身分の高い人までが――後の昭和天皇との婚儀をまえにした東久邇宮良子一家のような――その日だけはだれもが着物の裾を高く捲り上げ、恥ずかしげもなく腰巻をみせて、喜々として砂を掘った。春の潮干狩りで親しんだ浜辺に、3カ月後は海水浴客のための海の家が並んだ。 盛夏の和装というと、大戦後の現在では、すぐ浴衣ということになる。すこし趣味のある人は中形染めということばを知っているかもしれない。いまから百年前、男の通勤着を除けば日本人のほとんどだれもが和服であった時代――1910年頃(明治末)の標準といえば、夏のすこしぜいたくな着物は、麻にかぎっていた。 夏の単衣ものは帷子(かたびら)ともいう。帷子とは古めかしい言いかたで、単衣と帷子はべつのもの、という意見もある。男性用には越後上布、薩摩上布などがもっとも上等で、庶民の羨望の的だった。上布というのはほんらい上質の薄い麻織物を指したが、綿や絹で夏向きに織り出した上布もある。夏の麻織物は肌触りが快いのだから、下に襦袢などを着るのはまちがい――というひともあるが、一反が若いサラリーマンの月給1カ月分くらいもしたから、ふつうは襦袢は着たようだ。夏の衣料として女性に好まれるのは絹縮(きぬちぢみ)だった。縮は質感がさらっとしているので、これも素肌に着たらこんなぜいたくはない。 木綿縮の襦袢は夏の肌着としてひろく利用された。暑いさかり、お父さんがお勤めから帰って晩酌のとき、下はすててこ、上はこの縮の襦袢、というのは上品な方かもしれない。縮の襦袢は襟ぐりを円形にしたり、ボタンがけにしたりして、いつの間にか縮のシャツに変身した。 1905(明治38)年8月の【文芸倶楽部】に「夏の身嗜」という記事があって、つぎのような注意が列挙してある。まず、女性は髪の悪臭で周りの人に迷惑をかけないこと。月に2回は洗うこと。歩き方に気をつけること。そうしないと汗ばんだ着物の裾と足袋とが、埃染めになる。足袋と下駄とは、夏は特別きれいにしておきたい。色が白くても黒くても、暑中はなるべく白粉(おしろい)をつけない方がいい。肌襦袢は、メリンスが汗を弾いてよい。それがいやならチヂミか麻。対丈の浴衣は、外に着て出るべきものではない、云々。 ほんらい住居も衣服も解放的で、いわば夏向きのわが国で、なぜか冬の寒さよりも、夏の暑さが耐えがたいという地域が多い。この雑誌記事の指摘する第一の点、女性の厚化粧――厚塗りの白粉の上に、汗の玉がたくさん浮いているような化粧法は、戦争がきびしさをましてきた1940年代近くまでは、一向変わることがなかった。 夏は夏らしい清楚な趣があって欲しいのだか、どうもこの点が著しく欠けているようだ。(……)就中若い細君などは、面をかぶったように塗り立てたのが沢山ある。 また、夏の和服の下着は難物だった。むしろこれは、夏の暑い日盛りでも、出歩いたり、仕事をしなければならない、しかも身嗜みに気遣いをする女性がふえたためだろう。1929(昭和4)年8月の【婦女界】の座談会では、そういう立場にある女性たちの、和服下の汗除け衣料や、晒し木綿やガーゼを用いての、さまざまな工夫――苦しい工夫の意見が交換されている。 (大丸 弘) |