近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 538
タイトル 年中行事
解説

江戸時代、庶民がたのしみにしている年中行事のうちでも、正月と祭りとは突出していた。明治に入ると、正月の方は変わりもなかったが、いろいろな祭りの方は、前の時代にくらべればかなり元気がなくなったといえるだろう。江戸東京でいえば祭りの中心は下町で、職人や、商家の若い連中に支えられていたのだが、どこかよそへ勤めをもつひとや、よそから通ってくる人間が多くなり、また他国から東京に入ってきた者がふえ、だんだんと土地の人間同士の連帯感がなくなった。湯へ行っても挨拶をかわす人の方が少なくなってくると、揃いの浴衣で御旅所へ出かけてゆく、心のはずみもうすれる。

平出鏗二郎は『東京風俗志』(1899~1902)中巻の70頁あまりを使って、その時代の年中行事をくわしく説明している。その平出は、「四月諸社の大祭」の項で、こんなことを言っている。

元来諸社の大祭も、其の意を失い、神の為にするよりは、氏子の為にするが如きことなれば、二三月の余寒未だ去らざる頃までは、いと稀なれども、やがて四月に入りて、弥生の空の長閑に、人の心浮き立つ頃となれば、そろそろ執行するも少なからず、昔は二月三月中に行いしもあれど、陽暦の今日となりては、いずれも温かき頃に引き下ろしぬ。

お祭りが神様のためよりも、氏子の都合に合わせているという現実について、平出は祭り本来の意味を失ったと言っているだけで、それを歎いたり、非難したりする口調は感じられない。

たしかに寒中の祭りで揃いの浴衣、というわけにはいかない。御輿を担ぐ連中に水をかけるような威勢のいい祭りは、暑いさなかにかぎる。しかしその、祭りのシーズンオフというべき時期にも、平出がべつの章で述べているさまざまな催し、イベントがあったのだ。

七草をすぎ、14日正月を終えたころ、東京でも上方でも初芝居、つまり歌舞伎の初春興行がはじまる。それとほとんど同時に大相撲の春場所が、1909(明治42)年までは江戸時代以来の本所回向院で、それ以後は初代の両国国技館ではじまる。明治時代の新聞を見ると、1月の春場所、5月の夏場所の人気がいかに大きかったか、場所中連日の、新聞のその報道ぶりで想像される。第二次大戦以前は1年にこの2場所だけで、しかも1930年代(昭和戦前期)までは各場所が10日きりだったから、熱気が凝縮したのだろう。

正月の16日は盆の16日とならんで藪入り。この日は徒弟、小僧さんたちの年に2日だけの休日で、宿下がりともいった。仕立て下ろしの、肩揚げのあるお仕着せに、角帯をキチンと締め、明治10年代以後は鳥打帽をかぶるのが小僧の晴着スタイル。活動写真が大衆の心を奪いはじめた1910年代(ほぼ大正前半期)頃には、東京では浅草六区の映画街がこのすがたの少年たちでごった返したが、その時分からこの恰好を、小僧と思われていやだと嫌う者が出るようになる。関東での、小僧という呼びかたも嫌われた理由のひとつかもしれない。震災以後になると従来式の徒弟制度はいろいろな面で崩れはじめ、中学生なみに洋服姿の少年店員がふえる。

職業野球のはじまったのは日本では1936(昭和11)年だった。しかしそのころは職業野球には、人々が春先のキャンプインを待つほどの人気はなく、人気の点では六大学野球の方が上だったろう。だから春と秋の東京六大学リーグ戦、とりわけ早慶戦はファンを熱狂させた。このことは大阪系の漫才コンビ、エンタツアチャコのあたりネタが、「早慶戦」だったことでも想像できる。またその熱狂が、ラジオの普及に連動するものだったことも想像される。

スポーツの部類にいれるとすれば、帝国大学や学習院など有名校の運動会、一高などの墨田川レガッタが新聞で報道された時代もあったが、人気の枠は小さかった。学校がらみの行事としては、大学の学園祭、とりわけ一高の五月祭は、女学生たちがまちうけている行事だったらしい。

3月の雛祭り、4月の各地のお花見、5月の菖蒲の節句は変わることはなかった。平出は、いまもおこなわれている行事、失われつつある行事を解説しながらも、たとえば彼岸の六阿弥陀詣の折、石鳥居を七度潜ると長患いすることなく死ぬことができるといういい伝えがあるとして、「齢老いたる人には、いと真面目に行うものあるも笑うべし」(中巻)と一筆加える。こういう態度はこの本の各所に見られるが、とりわけ印象的なのは、遊覧の章のなかで、新橋、柳橋等の花街、また吉原、洲崎等の廓(くるわ)や、その行事にはまったく触れていないことだ。いやしくも『東京風俗志』と称する以上、これは大きな手落ちのようだが、この点について著者ははっきりと弁明している。「余の如き、多く世と背く、豈(あに)これを写すの識あらんや、余は特におもう所ありて、既に料理屋をさえ略述せり、況(いわ)んやその他をや」(下巻 「第11章 遊嬉賞翫」)。

平出に倣ってやや批判的に年中行事をみると、それが生き残るかどうかは、「本来の意」などではなく、たまたま商業主義とうまく結びついたかどうかによることが大きいように思える。またとりわけ1920年代以後(ほぼ昭和)になると、ラジオなどによるマスコミの関心、宣伝の影響が、学校教育などよりも、伝統行事を支える有力な力になったようだ。

初夏から秋にかけては東京も大阪も大きな祭りのシーズンに入る。東京では浅草の三社祭が5月。6月は祭月といわれるくらい祭が多いが、なかでも日枝神社の大祭のほか、各所の天王祭でにぎわった。つづく7月は盂蘭盆会のあと両国の川開き、とんで9月15日には神田明神の大祭がある。

こうした神祭のほか、当時すでに廃れた、としている行事のうちには、7月の七夕祭、11月の鞴祭(ふいごまつり)、報恩講に詣でる女の角隠し、電線のために廃された神田祭の大榊等々をあげている。七夕は現代になって復活したようだ。鍛冶職などのした鞴祭はすっかり跡を絶ったが、これは『半七捕物帳』の「半鐘の怪」でおなじみ。しかし多くの行事がすがたを消したのは、むしろ『東京風俗志』以後のことだった。

『東京風俗志』では触れていないが、秋に上野の山で開催される文展――文部省美術展覧会は人気の年中行事だった。はじまったのは1907(明治40)年、年々おおぜいの見物人をひきよせ、1916(大正5)年の第10回のときなどは「場内は人で満たされて、肩肩相摩し、場所によっては身動きも出来ない有様である」という状況(→年表〈事件〉1916年10月 藤懸静也【婦人画報】1917/1月)。第3回文展では作品のモデルになった某富豪婦人が、顔は私だが容姿は祇園の芸者だと抗議、そのすぐあと当の婦人の不貞が発覚など(→年表〈事件〉1909年11月 「第3回文展における〈新夫人〉の紛擾」読売新聞 1909/11/20: 3)、そのレベルはともかく話題豊富で、人気を煽った。いつも見物人の興味の的は裸体画、裸体彫刻だったが、悪戯をする不心得者もあり、当時の警視庁の神経質さを一概に責めることはできない(→年表〈事件〉1916年10月 「裸体美人画絵葉書の禁止」都新聞 1916/10/12: 3)。

(大丸 弘)