近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 534
タイトル 婚礼
解説

衣裳を含めて婚礼のスタイルは、時代による変化はもちろんあるが、地方的特色が大きく、また社会的経済的身分の差によって大きくちがう。明治中期(1890年代)の婚礼式の標準的なかたちは、【日本社会事彙】(1890~1891)と【風俗画報】(No.75, 107, 113 1894-1896)によってかなりくわしく知ることができる。とくに【風俗画報】には、日本各地の習俗が紹介されていて有益。

身分の差異をいちばんはっきりと示すのが、嫁入り荷物、すなわち当日婚家に担ぎ入れる、定紋を染抜いた油単掛けの釣臺の数だろう。明治後半の大阪での嫁入荷物を紹介している[大阪毎日新聞]は、「いちばんすそが風呂敷包」と書いている。大家さんが仲人をする落語の「たらちね」のような裏長屋の嫁入りは、まったく着替え2、3枚の入った風呂敷包みひとつを、花嫁さんが大事そうに抱いてくる。大毎の書きぶりでは、あり合わせの箪笥一棹くらいだと、風呂敷包みという言いかたのうちに入るらしい。

それから三荷、五荷、七荷と奇数であがってゆき、ふつうは十一荷までで、この記事では、中流社会のお嫁入りとして頃合いなのは本五荷のお荷物です、と言っている。本五荷というのは、近所の手前、古着を入れたり空長持を持ちこんだりすることもあるため。釣臺のなかは新調した晴着にかぎるのがほんとうで、衣類のほか重ね布団、箪笥、鏡台、裁縫道具などの手回り品も入る。そのほか普段着や着古しはべつに運びこむことになる。運び込んだものは何日か奥座敷に飾って、お祝いに訪れた客に見てもらう。

釣臺の行列と荷飾りの風習は、大阪の豪家では明治時代もけっこう行われたが東京では早くに廃れている。1913(大正2)年になると、東京で中流家庭の嫁入荷物の標準は、箪笥四棹と長持二棹という意見もある(→年表〈現況〉1913年11月 桜田節弥「改良嫁入り支度」【婦人画報】1913/11月)。

明治期と、1920年代(昭和初期)後半以後――仮に現代という――とを比較すると、衣裳を含めたスタイルにいくつかのちがいがある。まずそのひとつは、明治期の婚礼の中心は杯事だった。男女が向かいあって、三三九度の固めの杯を交わすことが、夫婦関係の成立を意味した。神前結婚のような、神様の前で誓うというようなスタイルは、キリスト教会の結婚式の影響で普及したのかもしれない。だから杯事は重んじられて、裏店の婚礼でも小さな子どもが、凝った場合には稚児輪のあたまに熨斗(のし)模様すがたで、献杯の雄蝶雌蝶の役をさせられたりした。

明治期には婚礼、つまり杯事は夜、嫁ぎ先の家の奥座敷でおこなうのがふつうだった。古い時代には婚儀は密事といっているくらいで、杯事に大勢の人をよぶことはない。双方の両親に仲人夫妻、せいぜい10人くらいの人が、燈火を囲んだ。そのあと別間で、仕出し屋の用意した料理で招待した祝い客をもてなす。料理にはかならず蛤の吸い物が添えられる。はで好みならば、近所の料理屋の2階で披露をするようなことはもちろんあった。しかし現代のように、挙式のスペースと宴会場をもった結婚式場というものはなかった。

明治期の花嫁は綿帽子をかぶる人が多かったらしいのに対し、現代はすべて角隠しに変わった。綿帽子は頭巾のように顔をすっぽりと覆う。綿帽子は江戸時代防寒用の帽子として用いられ、じっさい真綿でできていた。しかしすっぽりかぶると前が見にくいのですそを折上げてかぶることが多く、その場合は揚帽子とよぶ。この綿帽子、揚帽子は現代ではほとんど消滅している。

角隠しというのは、髪の周囲をめぐらす15~20センチくらいの幅の白い布で、外出の折に髪の汚れを防ぐのが目的だったから、江戸錦絵の美人立姿でおなじみのもの。明治期には仲人がこの角隠しをしている例もあるし、髪のごく一部分にだけかぶせているひともいる。現代ではこの角隠しが、花嫁さんのすがたでいちばん眼にたつ、シンボリックな飾りになっている。太平洋戦争末期の物資不足のおり、あんな無用な飾りは廃止すべきだという意見に対して、ときの商工大臣岸信介が、「それほどたくさんの布を使うわけじゃなし、一生一度のことだから」といって配給を続けさせた、というはなしが残っている。

花嫁は婚家の色に染まらなければならないとか、また身の清浄のシンボルとして、白無垢の衣裳を着せるという考えかたと、すこしでもはなやかな色合いを着せたい、という考え方がつねに矛盾した。それを解決する工夫は、黒地総模様もしくは高裾模様のきものに、地白紋綸子の裲襠(うちかけ)を着る、という方法もあれば、式には白無垢でのぞみ、披露の場で挨拶、現代ならばケーキカットのあとはお色直しとして、はなやかな色振袖に着替える方法もある。

明治期でも最初のうちは、前代の習慣をうけていたから、大名の姫君でもないかぎり、裲襠や振袖のきものは婚礼には着なかった(→年表〈現況〉1913年11月 山脇房子「総て不釣合いにならぬよう」【婦人画報】1913/11月)。やがてすべてがそうであるように、婚礼衣裳も年を追ってぜいたくなものになってきた。ただしそのぜいたくさは、一生かかっても着られもしない二十五荷の釣臺を見栄にする、というような不合理さには背をむけている。一日晴の愉しさとあそび心、そのあそび心のなかには、古い時代の風習を、自分が風俗人形のモデルになったつもりで再現してみようといった、披露宴に来てくれた知人友人達を観客にした、舞台にでも立つような気分、あるいはサービス精神が見られるようになった。

そんな冒険心を含めて、だれもが華やかな婚礼衣裳を着られるようになったのは、貸衣裳屋のおかげでもあった。貸衣裳は以前から古着屋の商売のひとつではあったが、専業の貸衣裳屋は1920年代(大正末~昭和初め)に生まれた新商売といわれる(→年表〈現況〉1935年12月 「貸衣装屋の繁昌」時事新報 1935/12/10: 6)。そのころから大都会に現れた結婚式場や、これも新興の美容院とむすびついて成長した。

もっとも、「簡単にでも式服の作られる人が、それをしないで、綺羅びやかな借衣裳を着るなどは不快の極みです」という意見もあった(茅野雅子「借衣裳是非」読売新聞 1935/11/26: 9)。

日本人ぜんたいの富の向上が、結婚式と婚礼衣裳をぜいたくにする風潮の一方で、そんな一時のことに大金をかけるのはむだではないかという、覚めた合理主義が、1910年代以後(ほぼ大正前半期)の結婚式には目立つようになる。貸衣裳の利用もそのひとつだし、式服の新調もわざわざあたらしく注文するのではなく、既製品ですますとか、とくに東京では関東大震災(1923年)後は、束髪や、洋装の花嫁がめずらしくなくなった(→年表〈現況〉1924年12月 「束髪の花嫁さん」都新聞 1924/12/2: 9;→年表〈現況〉1928年10月 「簡単になった結婚仕度―洋装の方が安上り」朝日新聞 1928/10/2: 5;→年表〈現況〉1928年10月 「段々簡略になる御恩婚礼式服―振袖から止め袖へ いくら位のところが受けるか」都新聞 1928/10/22: 11)。

式にかける費用の一部で新婚旅行、というのも1910年代以降(ほぼ明治40年代~)のひとつの傾向だった。もっとも新婚旅行については、最初は異論もあったようだ(→年表〈現況〉1919年4月 「新婚旅行は全廃せよ」【婦女界】1919/4月)。

(大丸 弘)