| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 533 |
| タイトル | フォーマルウエア |
| 解説 |
フォーマルということは、ある社会のきまったパターン、規格ということであり、欧米ではあいさつのしかたから手紙の宛名の書きようにまで、国際的なパターン、プロトコール(protocole)がなりたっていた。20世紀に入ると、王朝時代の宮廷儀礼に由来する厳格なプロトコールは、主にアメリカニズムによってくずれてゆくのだが、わが国が開国して欧米文化に接触しはじめた19世紀後期、イギリスでいうならヴィクトリア時代は、儀礼がもっともたいせつに遵守され、きまりにしたがうことの優雅な美しさが最大に発揮された、古きよき時代だったかもしれない。 華やかな晩餐会や舞踏会、オペラ座の豪華なシャンデリアのもとの絨毯を踏むとき、その晴舞台に参加する資格を保証するのが、招待状や入場券とともに、舞台衣裳としてのフォーマルウエアなのだ。フォーマルウエアを礼装とか式服、という窮屈な訳語で理解していた日本人は、肩も露わなイヴニングの淑女たちと、その女性たちをエスコートする、華やかでエレガントな「礼装」の紳士たちに当惑した。 わが国の伝統では、礼装の基本はもちろん礼の心なのだから、目に見えないものをべつにすれば、なによりも高い地位、貴い身分に対する畏敬の念、謙譲の精神がその装いに表現されるべきなのだ。欧米風のフォーマルウエアと東洋的な礼装との、考えかたのこうした齟齬が、明治・大正期における上流社会の人々のいでたちを、いくぶんか不体裁で、かつ面倒なものにしていた。 見方を変えれば、目的と場合によってはっきりときめられたフォーマルウエアは、服装を学ぶ者にとってはおぼえやすいともいえる。日本人が洋服を受け入れたとき、まず規範として欧米のその時代のフォーマルウエアを学び、それを忠実に守ろうと心がけたのは、当然のことだった。むしろその時期の日本人にとっての洋服は、個人的な趣味も流行もなく、なにもかもがフォーマルウエアのようだったかもしれないし、またほんとうにそうだったら楽だったろう。 なにをどう着るかという習慣は、どんな社会でもそれほどきまりきったものではない。とりわけ欧米のような複雑な社会構成であると、衣の習慣にも個人のチョイスの幅がひろいものだし、またつねに流動的だ。流動的ならざるをえない最大の要因は、ファッションだろう。 ある社会にフォーマルウエアが存在するのは、衣習慣の多様性と流動性に対する敵意のような意志が、社会には存在するためだ。困ったことは、変化に敵意をもつ人々のごく近くに、つねにファッションの達人たちがひしめいていることだ。この矛盾をみごとに調和させているのは、欧米社交界のうつくしい女性たちだろう。 第二次大戦前のわが国では、フォーマルウエアへの忠誠は、行政の部門部門できびしく要求されていた。その代表的といえるのは、議場に入る国会議員に求められたフロックコート、モーニングの着用だ。それは衆議院規則に明文化されている。「苟(いやしく)も国政を議する議場に於いて、しかも国民の代表たる議員が、礼に適わざる服装をなすが如きは、議院の神聖を傷つけるもの」という考え方が一般的だった。 日本人は「神聖なもの」(holiness)という観念を欠いている、とキリスト教の牧師が言うことがある。わが国にはたくさんの神聖なものや場所があるのだ。教室は神聖です、舞台は神聖です、道場は神聖だ、そして議院・議場は神聖だ――。このような神聖な場所では、ほとんどのしきたりは変化を拒絶する。人のすがたも例外ではない。剣道や弓道の選手が、いまでも江戸時代のさむらいのかっこうや、むかし風のおじぎに固執したり、柔道着は白でなければならないと頑張ったりする、それが礼装というものであり、礼はすべての基本、という信念がそこにある。 民間のフォーマルウエアの場合には宮内庁の式部官が関与するわけではないから、大正、昭和と時代がうつりかわるにつれ、自然に変化していった。その変化を悲しみ、本当はこれまでのやり方であった方がいいのだ、という小さな抵抗、あるいは感傷が、作法の専門家の口ぶりからうかがえる。 婚礼 昔は花嫁は下へ二枚白を重ねて、紅の無地の振袖に模様の帯で、総模様の袿衣(うちかけ)を着たもので御座いました。地は縮緬か綸子に限った様で、よく錦の袿衣などを着ると、あれは町人だと申したもので御座います。髪は下げ髪にも致しましたし、また半元服と申して髪を勝山と申すのに結い、歯を染めたもので御座いました。(……)それに花嫁は一切金気を使いません。即ち時計指環等一切金属類をつけませんで、髪飾も鼈甲を用い、帯留めも金具のつかぬ物を用います。 礼装、という観点からいえば、天皇の関与する国家行事において、規範への締めつけは一段ときびしい。大正天皇即位の御大典(1914)後の地方饗餞では、日本全国の地方名士数万人がその栄誉にあずかった。その人々すべてに、宮内庁は燕尾服の着用を要求した。宮内庁は「陛下御一代一度の大礼に平服(フロックコートまたは羽織袴)にて参列する等の野人的行為は断じて許すべからず」という主張をゆずろうとしなかった。 なぜ議場では背広ではいけないか。背広を着るとどうして「議場の神聖」を傷つけることになるのか、また各県平均すると千人くらいの立食の饗餞者が、フロックコートを着ているとどうして「野人的」なのか、もちろんそれらは議論のほかだ。 背広がサラリーマン社会に十分定着した1910年代(大正後半)以降、礼装、あるいは式服という名で重宝がられたのは、フロックコートとモーニングコートだった。もっともフロックコートはやや古めかしい印象を与えるものになっていて、欧米ではとうに交際場裡からは消えていたし、日本でも田舎の村長さん、などといわれたりした。それだけに、というのかもしれないが、政治家などには頑固にこれを着続けている人がいて、大戦間近まで、新内閣の認証式の写真にはたいてい何人かの、フロックコート大臣がならんでいる。前がカッタウエイされているモーニングと比べると、もともと外套系のフロックは前が塞がれて二列の釦があるので、いくぶんか重々しく見える。おそらくその記憶が、第二次大戦後の背広時代に、最後の式服ともいえそうな、ダブルの背広――釦が二列、ダブル・ブレスト(double breasted)――の下敷きになったのだろう。 わが国のフォーマルウエアをもうひとつ面倒にしたのは、洋装の規範と、伝統的な男性の式服である羽織袴との関係だった。洋装学習初期の明治時代にはあたまから拒否されていた羽織袴は、そののち政府高官や元老からの批判もつみかさねられ、1910年代(ほぼ大正前半期)以降になると、たいていの場合には、フロックコート、又は羽織袴、という文言で許容されるようになった。洋装の第二礼装という順位になるが、民間の礼装、あるいは式服としては、祝儀にも不祝儀にも共通してもちいられる便利さがあり(→年表〈現況〉1929年9月 高島米峯「現代女性展望―女性の礼服」朝日新聞 1929/9/23: 5)、第二次大戦前を通じて愛用された。 女性については、裾模様をもつ黒縮緬の五つ紋に三枚襲、帯は丸帯にかぎる、とされた。女性の場合は年齢と季節、またTPOによるヴァリエーションが多い。三枚襲は1900年代(ほぼ明治30年代)に入るころには廃れ、二枚襲がふつうになった。そのころから、女性が正式の装いを求められるときは、白襟紋付、という表現の指示がふつうになる。 (大丸 弘) |