テーマ | 着る人とTPO |
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No. | 532 |
タイトル | 車中の人々 |
解説 | 1872(明治5)年の、鉄道創業当時の木製車両はぜんぶイギリス製で、定員は上等が18人、中等が22人、下等が36人だったから、車体はずいぶん小さく、現在首都圏を走っているJRの標準的客車のほぼ三分の一の長さ、というところ。そのみじかい車体の両側3カ所に出入口があり、そのために座席は少ない。ただし車体はその後アメリカからも輸入され、またまもなく、ごくわずかだが日本でも製造されるようになったため、スタイルはさまざまになる。 この小さな車体にはもちろん手洗い設備はなかったから、用便は停車中に駅の設備に走りこむよりしかたがなかった。1873(明治6)年3月に車窓から放尿して10円の罰金を科せられた乗客がある。1889(明治22)年の5月に、鉄道局は、上・中等の客車に「便器」を設備と報じているのに対して(→年表〈現況〉1889年5月 東京日日新聞 1889/5/9: 3)、トイレ付き車両が標準となったのはその年の東海道本線の下等車から、といっている資料もある(→年表〈現況〉1889年6月 「便室附新客車」中外新聞 1889/6/5: 1)。 創業時に布告された〈鉄道略則〉の第七条は、つぎのようになっている。 何人ニ限ラズ「ステーション」構内別段吸煙ノ為二設ケシ場所ノ外又ハ吸煙ノ為設シ車ヨリ他ノ車内ニテ吸煙スルヲ許サス且婦人ノ為ニ設ケアル車及部屋等ニ男子妄(みだ)リニ立入ルヲ許サス こういった鉄道規則は、おそらくイギリス、あるいはアメリカのそれの直訳だろう。婦人専用車ができるのは30年も後のことだし、禁煙については、第二次大戦前はまったく配慮がされず、もしとなりの女性に、煙草を吸ってもよろしいでしょうかなどと訊いたら、気持ち悪がられたにちがいない。外国ではごく一般的だったコンパートメントも、わが国では戦前はほとんど受け入れられなかった。 明治時代、新聞小説の挿絵に描かれた、冬の長距離列車内の人々の恰好は、外の街を行く人となんの変わりもない。男は二重外套に身を包み、女は大きなショールに深くくるまれてからだを硬くしている。開業後3年目になって、神奈川県の渡井某に対し、車内の貸座蒲団屋の営業が許可されたという記録があるので、それまでは木のベンチに腰を掛けていたことになり、冬はさぞかし冷えたことだろう。 1892(明治25)年の新聞記事に、上中等客車に備え付けられた湯たんぽ、および唾壺が「紛乱毀損」することが頻りなので、自今みだりにこれを移動させるものがあれば、鉄道規則により処罰することになった、とある(→年表〈現況〉1892年1月 「汽車の湯たんぽ及び唾壺」朝日新聞 1892/1/20: 1)。ここでいう湯たんぽがどんなものかはわからない。その7、8年前に東京で携帯湯たんぽというものが発明されて、すぐ模造品ができたほどよく売れたという記録があるが、それとはちがうようだ。むしろ大阪にあったという、人力車の車体に行火(あんか)を仕掛けたという工夫に近かったかもしれない。スチームによる車内の暖房がはじまるのがようやく、1900(明治33)年12月1日、東京-神戸間の6時10分発の急行列車からのことだ。ただし当分は一日おき、というのはなぜだかわからない(報知新聞 1900/12/2: 2)。 1872(明治5)年の創業から17年目の1889(明治22)年の7月1日に、新橋-神戸間の東海道線全線が開通した。この時代はすべてマイル制だったので376.24メートル、つまり605.5キロの距離をを、急行列車の所要時間、下りが20時間5分、上りはなぜかそれより15分余計かかる。木のベンチに座布団でも、冬は厚着で我慢しても、片道5円足らずで汽車は勝手に走ってくれる。東海道の旅は男の脚でも14、5日は必要だった。因みに1877(明治10)年前後の上海までの船賃が2等で50円、サンフランシスコまでが210円だった。 汽車の便が行きわたるまでは、ほんのすこしの距離でも基本的には脚だけが頼りだから、例の手甲脚絆に菅笠、草鞋ばき、という旅すがたが長くつづいた。人力車や馬車の便があるのは大都会からそう遠くなく、日光だとか成田山だとかいう名所の近辺にかぎられていたのだ。手甲脚絆草鞋ばきの甲斐甲斐しい旅装束が、ふだんとちがわない恰好と汽車の切符一枚に変わったとき、旅はある意味で、かなり自堕落なものになった、とみることができるかもしれない。 1900年頃(ほぼ明治30年代半ば)以降の新聞、雑誌によせられた文章のなかには、汽車の乗客のマナーについての指摘がふえてくる。その代表的な内容は、車中人目もはばからず、裸をさらす日本人の習性だ。その時代は車内に、人前で股(もも)を出してはいけないという注意書きさえあったらしい。これは明治初期の、あの違式詿違条例をおもいださせて、こんな時期になってまで今さら、と思わせるのだが、にもかかわらず、「この頃の電車には、尻を捲って股を出している人がずいぶん少なくないようだ」(都新聞 1914/8/2: 2)といった種類の指摘はなくなっていない。 男たると女たるとを問わず、誰が居ようと座席でスルリと浴衣を素っ裸に脱いで、男なんかは六尺(ふんどし)一本で悠々とやっている。「太股を出すこと云々」と禁止の御規則はあっても、裸はご法度ではないとでも解しているのだろうか(→年表〈現況〉1920年8月 「投書―裸道中」朝日新聞 1920/8/21: 2)。 母親が車中で胸を広げて乳を与えることはきわめてふつうの行為だったし、座席に幼児を横たえておしめを替えることも、見なれた光景だった。 1920(大正9)年には鉄道省は列車旅行のマナーについてのパンフレットを作成し、「列車内を自分の座敷か寝室のように心得えて、肌脱ぎや、あぐらをかいて人の迷惑を顧みぬ不作法な人がまだ少なくない。又ズボンを脱いで棚にぶら下げたり、浴衣がけに着替えたりするなども慎んで欲しいものである(……)」という注意を発している。 (大丸 弘) |