| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 531 |
| タイトル | スポーツウエア |
| 解説 | 明治・大正・昭和のスポーツウエアの歴史は、そのまま近代日本服装史の雛形と言っていいような内容を持っている。 スポーツウエアをややひろく運動用服装と解釈してみると、運動をするための服装、というものが、それまでのわが国にはほとんど存在しなかった。もっともわが国には欧米のスポーツにあたる遊びが、相撲以外に見当たらなかったのだから、それも当然だ。しいていえば蹴鞠や追羽根はスポーツに入れることができるだろうが、それをやる人があまりにかぎられているとか、特定のみじかい行事――正月――に付随しすぎている。 新しい教育制度が浸透しだした時に起こった最初の問題のひとつは、女生徒の運動、あるいは体育についてだった。それはなにを着るか以前に、幼いときから三つ指をついて挨拶するようなしつけをしている少女に――しとやかであるべき女の子に、手足をふりまわすような体操をさせる、ということ自体への反発だった。東京の公立小学校に体操の科目が加わったのは1880(明治13)年7月だったが、娘に体操させるのを嫌って、学校を下げさせる親が少なくなかった。家庭のそうした態度は女学校においては一層つよかったようだ。これはひとつには学校体育の内容が、最初のうちはかなりキメの粗いものだったせいもあるだろう。 その一方で男の子については、かなり早い時期から体操は兵隊式だったようだ。1889(明治22)年には、東京府では小学校での兵式体操がはじまっている(→年表〈事件〉1889年1月 「東京府下の公市立小学校で兵式体操教授」時事新報 1889/1/14: 3)。 日清戦争のはじまった1894(明治27)年8月に文部省は、小学教育が智育に偏り、体育衛生の指導が不完全であることを憂慮し、「高等小学校生徒ニ兵式体操ヲ課スルノ際軍歌ヲ用イ体操ノ気勢ヲ壮ニスルコトアルヘシ」などという訓令を発している。この訓令のなかでは、「小学校生徒ハ活発ナル運動ニ便スル為ニ止ムヲ得ザル場合ノ外学校内ニ於テハ洋服又ハ和服ヲ問ハズ都(すべ)テ筒袖ヲ用イシムヘシ」とも指示している。 もちろん兵式体操はあくまでも男子生徒に対してのことで、女生徒は小学校でも高等女学校でもむしろ体育からは疎外されていた。これには前述のような生徒の家庭の思いも、ある程度は影響しているだろう。体育というよりもむしろ遊戯にちかい、長い袂もそれほど邪魔にならない、体操と舞踊の中間のようなものが、多くの女学校での体育の時間だったようだ。そんな優美で緩慢な身体動作でも、袴だけははかないわけにはいかなかった。明治の女学生の海老茶袴は、朝夕の通学のときに人目をひいたが、最初の運動服でもあったのだ。 一方、開化以後欧米から入ってきたスポーツは、順調に日本人に受け入れられてゆく。スポーツはすべて、時間のゆとりのあるところに発展する。時間のゆとりに恵まれているのはつねにハイソサエティの有閑人種と、そして学生だ。あまり道具も設備も特別の服装も必要としない球技の多くは、まず学生たちに受け入れられた。 野球が、横浜港を訪れるアメリカ軍艦の水兵や商船の乗組員と、一高など東京の学生との「国際試合」によって鍛えられ、評判をひろげていったことはよく知られている。明治期についていえば、学生たちにはグローブさえ満足にそろってはいなかったようだから、ましてユニフォームなどは問題外だった。 一方、女学生のなかにひろがっていったのは庭球だ。横浜在留の英国人のなかには、来日早々自宅近くにテニスコートを建設するような熱心家がいた。野球のように新聞にスコアまで紹介されるような人気とはちがうが、日本の庭球の歴史は、おそらく横浜のフェリス女学院あたりの英語教師たちの、手をとっての指導にはじまるのだろう。 スポーツは最早一般人の生活のプログラムになくてはならぬものになって来た。中にももっとも盛んで、しかも普及しているのは、なんと云ってもテニスである この時代、1920年代(大正末~昭和初頭)の、東京の女学校の残された写真では、あいかわらず、廂髪に袴でラケットを振っている学生がふつうだ。それが30年代(昭和5年~)になると、短く切った髪にキャップをかぶり、半袖のシャツにショートスカート、というスタイルがふつうになり、その急激な変化にはおどろく。この時代には女子テニス選手のスタイルについて、ウィンブルドンでの素足のプレーヤーの出現など(→年表〈事件〉1929年6月 「素足の女子庭球問題」朝日新聞 1929/6/7: 3)、世界的な話題が多かった。しかし日本の場合はそんなことより、1920年代の子ども洋服の一般化、それに追われるような女学校の制服の洋服化の急速な進行が、その背景だろう。 またべつの背景としては、スポーツの各分野において、本家の欧米に追随したそれぞれ独自のウエアが着用されるようになり、それが日々の新聞やグラフ雑誌の写真で、だれもが見て知っている時代になった、ということもあげなければならない。野球はもっとも早く、1908(明治41)年以降、アメリカの大学チームやプロリーグの選抜が十数回訪日し、見ての恰好という点では、六大学の選手と、メジャーリーグの選手となんのちがいもない。相撲以外プロの存在しなかった1930年代前半(昭和15年頃)までは、野球やラグビー、テニス、また陸上競技、水泳など、とにかくスポーツ選手といえば、それは学生とイメージが重なっていた。 しかし学生には手のとどきにくいスポーツの世界――乗馬とか、ゴルフとか、ヨットとかは、華族を主人公とした新聞小説の舞台にはなる。震災直前の1922(大正11)年に日本を訪れたイギリスのプロゴルファーが、日本でゴルフが流行しだしてからまだ3、4年と聞いているのに、各地の設備のよさと進歩の早さにおどろいたと言っている。 ゴルフズボンといわれたニッカーズ(knickers)は、膝のあたりにたるみがあり、バーなどではいていると、最初は金回りのいい華族さんに見られたかもしれない。それがやがて土建屋の親分になり、いまはずっと薄地になって建設現場の労働者がはいている。戦後はストレッチャブル・ファブリックスの発展によって、構造的に膝にたるみをつくる必要がなくなった。 おなじことは乗馬服のたるみにも言える。厚地の乗馬ズボンに、からだにフィットした真紅のジャケット、カスケット帽をかぶって手に鞭でももっていれば、これから狐狩りというきまったスタイルなのだけれど、日本で見たら仮装になる。もっとも銃猟そのものは第二次大戦前のわが国ではけっこう盛んで、西洋人と変わりのない狩猟服も写真や絵にずいぶん残っている。拳銃の広告が新聞に載っている時代だったから銃規制は戦後に比べれば緩かったにしても、銃猟といえばもちろん多くは金と暇のある階級のぜいたくな遊びだった。都会から銃猟にきた華族の若様が、山家育ちの美少女を見いだして連れ帰る、といった筋書きが新聞小説にもいくつかある。 スポーツウエアは機能を一義的に考慮したうえで、レジャーの気分をだいじにする。それはスポーツということばの本来の意味に添ったものだ。その点からいうと、剣道、柔道、弓道といった日本の武道の装束は、かなりちがう方向をむいている。もとは人を殺傷するための技術だったこれらのわざには、いまでもつよい自己抑制の、重苦しさがつきまとっている。弓を引くのになんであんな袴をはく必要があるのかは、部外者にはわからない。 (大丸 弘) |