近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 530
タイトル 子どもの洋服
解説

子どもの服装が和服から洋服へ大きく転換したのは、東京では大震災を挟んだ1920年代(大正末~昭和初め)だった。1928(昭和3)年の東京の新入生を、新聞はつぎのように報じている。

和服をつけて学校へやるのは恥ずかしいくらいに、完全に洋服時代が参りました。(……)山の手の麹町番町小学校では、女児入学生百名中和服四名、男児入学生百二十名中和服は一名で、女の子の約半数は断髪でした。(……)下町方面の代表として、日本橋常磐小学校の新入学生を調べますと、男児八十名中和服は一人もなく、女児七十名中和服は三名でした。
(国民新聞 1928/4/4: 6)

すでに1920年代(大正末~)に入ったころには、子ども洋服におされて友禅の需要が激減、という報道もあった(→年表〈現況〉1922年5月 「友禅の需要激減」読売新聞 1922/5/1: 4)。子どもの洋服を推進したのは、とりわけ通学服の洋服化だった。1921(大正10)年という時点で、東京市内公立190校、私立230校の過半は洋服通学を奨励し、なかには全生徒の8割が洋服、という学校もあった。奨励の理由は体操の際の便不便によるものだが、学校が強制できる筋のものではないので、家庭の側の覚醒によるものだろう、というのが当局の判断(「小学児童や女学生に洋服流行の趨勢」読売新聞 1921/9/12: 4)。

洋服は運動しやすい、活動的だ、という見かたからいえば、たしかにこの時期の欧米の流行スタイルは、よいタイミングだったといえるだろう。もっとも外国のファッション雑誌の頁そのままの、あるいは銀座のショーウインドウからもってきたような子ども服には、飾りだくさんの、高価なことを見栄にして学校に着てくるような服があったらしい。ある記者は、通学服は運動に便利というばかりでなく、質素で丈夫でなければならないから、布地に改良を加える必要がある、と言っている。そしてそれを改良服と呼んでいて、この時代の人の改良服という概念がよくわかる(→年表〈現況〉1921年4月 「益々流行る子供服」都新聞 1921/4/18: 4)。

それまで子供服売場をもたなかった三越呉服店が、子供洋服の陳列をはじめたのが1922(大正11)年の5月。また、『黒髪』を書いた近松秋江(1876-1944)のような人まで、「婦人、殊に少年に洋服を着る者の多くなったことは、なによりもこの十年、もっと押し詰めていえば、極々二三年(1922-1924)の間の顕著な事実であるように思われます」と言っているのはおかしい(近松秋江「婦人服装の洋化」【婦人公論】1924/3月)。

しかしこの時代の洋装はもっぱら夏だけで、秋風が吹いてくると女性も子どもも和装にもどるのが毎年のくりかえしだった。洋服は夏のもので、寒い時期には着物の方が温かい、という評価はうごかなかった。医家の指摘する「極寒のお正月の晴着に、今迄の和服を脱ぎ捨てて、膝頭位までのスカートに変わり、あるいは短い靴下で脚を出すのでは、冷えざるを得ないと思います」という危惧は事実だったろう。

加えて、夏服と冬服の値段の差があった。小学校で夏に女の子が洋服を着るようになったのも、「夏季の体操の時間、男の子は裸の猿股ひとつでやらせていたのですが、女の子はそんなわけにいかず、その結果思い付いたのです」という某小学校訓導の話がある。そういう「洋服」は浴衣地を使って1、2円でできた。それはすぐあとのアッパッパにも通じる。しかし冬服はそうはいかなかった。子供服だけの問題ではないが、冬物にふつう使われる羅紗の値段ははるかに高かった。

そのために冬の子供服には綿を入れよ、という意見もあった。資生堂美容部長だった三須裕はこの提案をしたが(→年表〈現況〉1921年12月 「飾られて迷惑な冬の子供達」報知新聞 1921/12/7: 夕7)、彼の先見性ゆたかな意見のなかでも、これはやや時代を先どりしすぎたようだ。ダウンジャケットやキルティングのコート類が普及するのは、ようやく戦後のことになる。

洋装の寒い冬の解消には、下着の工夫や、マント、オーバー類の利用もはかられたが、なんといっても毛糸編ものの愛好が大きく役だった。昭和の子どもの、明治・大正の洟垂れ小僧たちからは一皮むけたようなモダンさは、銀座のウインドウでもとりわけ目をひく、彩りの華やかな、毛糸のセーターやチョッキ類、そしてふかふかしたマフラーや、これも毛糸編みの手袋の印象によるところが大きかったに違いない。

1920年代初め(ほぼ大正後半)はまだ子供既製服の種類は少なく、よいものは銀座などの洋品店で手に入れる舶来品か、オーダーになった。それが 1920年代後半、時代が昭和と変わるころには、既製品の種類も量もふえ、それはちょうど都会のデパートの発展と歩調をそろえるかのようだった。子どものよそ行き着をつくろうとする母親には、盛り場の商店街のウインドウや、とりわけデパートの広くて華やかな店内をみて歩くという、ショッピングの愉しみが生活のなかにひとつ加わったともいえる。

婦人雑誌にも、見て、選ぶことへの誘いがふえてくる。

一寸した買い方の呼吸ひとつで、始終子供に気の利いた服装をさせることが出来ます。長女K子の着ている洋服を見て、どこでお誂えになったの、などと訊かれることが屡々あります。本当のお値段を公開すると、まあ!その倍くらいかと思いました。随分買い方がお上手ですね、といわれることが珍しくありません。ご家庭の都合上、ご自分でお仕立てにならず、既製品をお買いなさる方のために、買い方の一端を書いてみましょう。
(【婦女界】1928/8月)

小学校に入学するとなると、女の子ならセーラー服で20円前後、羅紗地のオーバーがおなじくらい、セーターが6、7円から、それに各種下着類を含めて、洋服代だけで100円近くかかる(朝日新聞 1929/3/2: 5)。それに耐えられたのは、家庭がかつての時代とくらべればはるかに、子どもに金をかける余裕ができたためであることはあきらかだ。

しかしその一方で、家族の着るものはぜんぶ手縫いしてきた女性たちは、まだ健在だった。ある家庭は工面してミシンを手に入れ、ある人は手縫いで、娘のジャンパースカートから、息子の詰襟の制服まで縫い上げてしまうひとは、めずらしくなかった。この時代の婦人雑誌の、とくに付録類の型紙が、それにどんなに役だったろう。

1940(昭和15)年の、京都市内の小学生千数百名あまりを対象にした京都帝大の調査によると、通学に和服を着ている子どもにくらべ、洋服の子どもの方が身長体重とも優っている。これは和服の方が平均重量が大きく、かつ、緊縛部分の多いため、と結論づけている(→年表〈現況〉1940年2月 「和服を着た児童の体格差」読売新聞 1940/2/15: 4)。

(大丸 弘)