テーマ | 着る人とTPO |
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No. | 529 |
タイトル | 子どもの晴着 |
解説 | 1900年代、明治の後半から末頃の東京の男の子といえば、筒袖の紺絣に黒っぽい兵児帯を締め、あたまは坊主刈りが多く、たいていは草履ばきで、家の近所で遊ぶときにははだしの子も多かった。夏の暑いさなかにはそれが白絣になる。 女の子はたいていは髪を伸ばして編みさげていたが、稚児髷にしている子もまだあった。また、前髪を額に下げて切りそろえる、目ざし髪という風もつづいていた。この時代小学生の女の子に、どんなきものが着たいかと尋ねると、口を揃えて、袂の長い友禅のきもの、と答えるのがふつうだった。 長いあいだ低迷していた小学校への入学率、とりわけ女子のそれが、授業料がいらなくなった1900(明治33)年をすぎるころから上昇し、1910年代末には95パーセントをこえる。そうなるともう、子どもの日常は学校生活が中心になる。 明治のはじめは、小学校に入学することは晴れがましいことだった。学校に「上がる」という、いまに残っている言いかたがそれを示している。郵便切手を売り下げるというような言いかたのされていた時代だった。学校には上げたいけれども、着せてやるものが……、とためらう親もすくなくなかった。とりわけ試験の日となると、旗日とおなじように着かざらせる親がいた。小さい女の子が地にひきそうな袂の晴着を着、学生帽をかぶった男の子が袴すがたで、つれだって学校へ行くすがたは、可愛いらしかったにちがいない。 しかし東京市中の小学校でも、通学に袴をはくことについては曲折があった。1890年代(ほぼ明治30年代初め)末の富士見町小学校の規定は、つぎのようになっている。 生徒は男女とも、必ず袴を着用すべし。但し洋服を着するもの及び尋常科女生徒は此限に非ず。 この当時、小学校は尋常4年、高等4年の8年制だった。しかしそれよりすこし前の時代に、下町で小学校生活をした谷崎潤一郎(1886-1965)は、つぎのように回顧している。 生徒たちはぜんぶ和服で、男の子は皆筒袖であったが、羽織を着ることは許されていた。山の手方面のことは知らないが、下町の小学校では袴を穿かず、女の子は着流しのまま、男の子は前掛けを締めていた。 谷崎より3歳年上の志賀直哉は、 少年時代から番町あたりの山の手住まいだったが、小学校ではそのころ袴をはかなかったと、『速夫の妹』(1918)のなかで言っている。それがだいたい1890年代末(明治30年前後)のことになる。一方1899(明治32)年にこんな投書がある。 麻布の某小学校では、女生徒に袴を着して登校せよとのことで、父兄はにわかに袴の注文をするやら、寸法をとるやら大騒ぎだ。儀式の時は兎に角、平生袴の必要があるや、教育家にお伺い申す。 また、横浜育ちの吉川英治(1892-1962)は、9歳のとき中退した小学校の、1901(明治34)年前後の時期の思い出をこう書いている。 ぼくら男の子は、紺ガスリに黒の兵児帯と極っていた。紺ガスリ以外ほかの着物は着せられたことはない。学校通いには必ず小倉の袴をはき、袴のはき方は父からじかに教わった。 子どもの袴といえば、1900年前後は、女学生の海老茶袴が全国的に普及した時期だった。それにならって、小学校の女生徒にも袴をはかせようという方針がある一方で、それに対する抵抗も根づよかったらしい。 熊本県玉名郡のある高等小学校では、女生徒に袴をはかせようとしたところ、郡長がその着用を禁じたため、学校長と郡長が衝突、文部省の視学官が視察に出張するという騒ぎになった。結局は、県の内務部長が各郡長につぎのような通牒を送った。小学校女生徒の袴は、教育上、管理上、衛生上、適当のことであるが、保護者からの苦情のため、かえって教育の阻害になる懼れもあるので、土地の状況を考慮し、実施に当たっては調製上便宜の方法を講じる必要がある、と(→年表〈現況〉1901年5月 「女生徒に袴」大阪朝日新聞 1901/5/21: 3;6/10: 3)。 1910年代、大正期に入った時期も、小学生の通学の袴が定着したとはいえなかった。袴に対する批判、疑問はつづき、1913(大正2)年には、東京日本橋の某小学校で、袴の紐が腹部をつよく緊縛して児童の健康に害があるとし、一種の改良服を制定して論議を生んだ(→年表〈現況〉1913年6月 「袴は果して廃止すべきか?―全国学生の衛生と風紀問題」国民新聞 1913/6/1: 4)。 また、袴は洗濯することが稀であるため、いつも手拭い代わりになっている子どもの袴は、不潔この上ない、という意見も出ていた(→年表〈現況〉1917年3月 「児童の袴の洗濯」都新聞 1917/3/10: 1)。大都会のなかでさえ、袴どころではない、はだしで通学する子のいる地域もあったのだ。しかしすでに、小学生が袴をはいて学校へ通う時代でもなくなっていた。 子どもの服装の目玉というべき舞台は七五三だったろう。七五三は7歳の女の子、5歳の男の子、それと3歳になったとき、東京であると日枝神社や山王神社などに詣でる通過儀礼のひとつで、10月15日のその日には精一杯の晴着を着せられて、親の手に曳かれてお参りする。とりわけ5歳の男の子は、日露戦争の戦捷後あたりから、水兵服を着せられたり、東郷海軍元帥の恰好をさせられたりといった、ファンシードレスが人目をひくようになった。 自分自身は人目が気になってできないような恰好を、なにも気にしない子どもにはさせてみる。現れては消えた改良服も、ハイカラな洋服も、その実験台や、尖兵や、気まぐれの犠牲者は、いつも無邪気な子どもたちだった。 (大丸 弘) |