近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 528
タイトル 子どものふだん着
解説

100年前の日本はまだ自然も豊かで、子どもたちにはトンボや小魚を追って一日すごすことのできる黄金時代だった、というバラ色の想像は、それほど一般化はできないだろう。

1907(明治40)年のデータでは、妊娠した100人中、無事出産したのは88.8人、その後の乳児死亡率は、1920(大正9)年頃までは15パーセントを上回っていた。目のあかないうちに、まだ見ぬこの世を去ってしまうあわれな子も、そうめずらしいことではなかったのだ。お七夜、お宮参り、初節句、喰初め、袴着等々、幼子の成長を祝う行事のつづくのには、それだけの理由があったといえる。もっと以前には、誕生当夜につづいて三夜、五夜、七夜といい、一日おきに祝う習慣もあったという。

だからその時代、子どもにはなにかというとお守りが与えられた。ずいぶん後になっても、ランドセルにどこかの神社のお守りらしいものをぶら下げている子がよくいた。最初のお守りは、産着(うぶぎ 初着とも)に縫いつけられる背守りだ。これは紅白の糸で背の中央に鈎型に縫われるしるし。昭和に入ってからの裁縫書にも説明があるので、戦後も行われていたかもしれない。

赤ん坊は一般に厚着させられていた。「我国の習慣として多くの衣服を着重ねて、夏のごく暑中などでも、時には五枚位も襟足を揃えさせて飾りをする母親があるが、これ手足及び肺の運動を不自由にし、皮膚から出る蒸発気を妨げ、遂には健康の児童とても害を惹き起こす(……)」(東京衛生協会『育児衛生顧問 一名・母親の心得 衣服の項』1903)という傾向があった。それは赤ん坊にかぎらず、明治時代の写真を見ると、外で遊んでいるどの子どももずいぶん着ぶくれして、重そうな恰好でいることがわかる。その時分の小さな子は、たいてい青っぱなを垂らしていて、唇のうえまで垂れさがってくると、それをきものの袖で横なでした。1920年代以降(大正末~)になって、都会の子どもが家でもだいたい洋服を着ているようになると、毛糸のセーターの袖口で横なでする。だからセーターの袖口がカチカチになっている腕白坊主がよくいた。その時代はセーターなど、ひと冬にそう何回も洗濯はしなかったのだ。

子どもの着ぶくれは、子どものきものの構造のせいにもよるだろう。子どもは成長が早いものだから揚げや縫いこみがどうしても多くなった。子どもの着るものは、明治に入るまでに、大人のきものを年齢なみに小形に仕立て、布地を経済的に利用できるよう、生まれたばかりの子に着せる一つ身から、二つ身、三つ身、四つ身、そして大人用の本身と、きまった裁ちかた、仕立てかたができていた。

しかし実際にはこのなかの二段階か、せいぜい三段階ぐらいしか経ないで、子どもはそんなことを気にしないから、大きすぎる分は肩揚げや、大きな裾上げなどでまにあわせたものだ。それはいいとしても、なにを着せられてもわからないような小さな子でもなく、けっこうもうお色気のある十代半ばすぎの雛妓(おしゃく)たちや、女学校の高学年の娘などが肩揚げをしているのは、現代の人間にはちょっと理解しにくい。女学校では、肩揚げだけでなく袴に揚げをしている例もあって、これは考えようでは、装飾的なタックスカートを真似たものともいえる。

厚着とは反対のことだが、夏になれば、都会でも貧乏人の子どもなどは、たいていは脛きりのきものに細帯ひとつであそびまわった。はだしの子も多かった。1910年代(ほぼ大正前半期)頃まで、都会でも田舎でも、男の子はたいていは紺絣を着せられた。やすい捺染絣もあったが、ともあれ絣というのはほんとに男の子っぽかった。女の子はたいてい赤い色のまじったメリンス友禅にあこがれていた。男の子も14、5歳までは褌などしていなかったから、きものの前を分ければそのまま立ち小便ができた。少女たちはただしゃがむだけで用をたした。なかにはきものの裾がよごれないように、ちょっとまくってしゃがむ女の子もいる。そうすると股の部分がさらけだされた。「こんな光景を外人が見たら、何と思うであろうか」という、新聞への投書もあった(→年表〈現況〉1910年7月 阪部やすえ子「腰巻に代えるべき婦人の新式猿股」【婦人倶楽部】1910/7月)。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』のなかには、少年時代に、女の子の下腹はどうなっているのか知りたくて、小さい子をだましてきものをまくらせた話がある。「目を丸くして覗いたが、(……)なんにもなかった」。都会でも、子どもにパンツやズロースが普及しだすのは1910年代以後(大正後期)のことだ。

乳幼児はだいたい、人の背中に負ぶわれて育った。背中に負ぶってゆすっていなかったら赤ん坊は泣くものだ、と信じられていた。そのために小学生の少女が子守に雇われたりした。西洋では赤ん坊が柵のなかに入れられている、ということを聞くと、西洋人は鬼のようだと思った。子守にはだいたい決まったスタイルがあり、負ぶい紐でまず赤ん坊を子守の背中にくくりつけ、その上から綿の入ったねんねこばんてんを着る。負った子に髪の毛をいじられないように、子守は手拭いを子守っ子被りする。子守の背中で赤ん坊は大きく股をひろげているので、弱い子のなかには股関節に障害が生じることもある、という説があって、医師たちのあいだの議論が新聞をにぎわした。

負ぶわれている者だけでなく、負ぶっている者もまだ幼い子どものことがある。貧しくて子だくさんの家が多い時代だった。そういう家では、小学校の4、5年にもなれば、学校から帰ってくると近所の手伝い仕事などに追いやられる。下町には、ハンカチかがりとか真田紐編みとかいう、単純で人出の欲しい下請け仕事をしている家がいくらもあった。子どもたちの持って帰るわずかな金は、家計のだいじな一部になる。器用な女の子のなかには、小学校をでる時分にはもう、ミシンがけでは大人顔負け、という者もあった。そんな少女はまた、5年生ぐらいでも、大人の目をぬすんで紙巻煙草を吸っていたりしていた。

(大丸 弘)