近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 527
タイトル 出産/授乳
解説

お産についての実用的な文章は、1910年代(ほぼ大正前半期)頃からは、ほとんど医家の書いたものになる。専門的な産科学やお産婆さんむけの本の内容はわからないが、通俗医学書で言っていることは、現代とほとんどちがいはない。気づくことといえば、戦前は産後の静養を非常に長期間とらせたこと、また産婦のからだを温めることにずっと気をつかっていることくらいだ。そして1910年代というと、まだ例のまくりというような、前時代の慣習に固執するひとがすこしは残っていたのだろう、そういうことへの言及のある書物もある。

明治時代、その半ばくらい(ほぼ1900年頃)までは、お産についての教えごとは、むかしながらの女訓書や、礼法書のだいじな内容でもあった。その一例をあげてみよう。

婦人が妊娠して5カ月を経たときは、里方の父母はじめ親類の者たちを招いて帯祝いをする。里の父母は紅白の絹八尺ずつを、法に適った折様の紙に包んで水引をかけ、樽肴とともに贈る。この紅白の絹は、男の左の袂より女の右の袂に入れて渡す、という作法もある。この絹は、その日産婆を招いて妊婦の腹に巻くもので、いわゆる岩田帯がこれ。この日はお産が軽いようにと戌の日をえらぶ。またこの帯は、子どもが生まれる前に小紋に染め、祇園守りの紋をつけ、紅絹を裏にして衣服にするのが習わしである、と。

さて分娩の日となると、白い上敷を室内に敷き、白い寝具、白い三枕、屏風を用意する。産児の産着そのほかの必要な品々は、白木の台に乗せて産室の隅に置き、また薫きものをほどよく燻らせておく。出産ののち、産室で用いた火鉢その他の調度はほかの部屋で用いてはならない。これは産の穢れを憚るためだ。産児もおなじく穢れがあるから、7日間産室から出してはならない。

産後7日目をお七夜という。生まれた子に名前を与える名披露目の祝いだ。名を与えるのは祖父か叔父のうち、年長で幸いある人。奉書か杉原紙を二枚重ねて折り、その中央に名を書き、三つに折って上包みをし、白木の台に据え、樽肴を添えて贈る。また産婦へは夫より、時服一重ねを与える。産児の産着は里方の父母が贈るのが法だ。昔は産着に、男の子には短刀、女の子には守り刀を添えたものだが、いまは随意になった、と。このような産後の儀礼は21日目、35日目、食い初めの120日目とつづいてゆく(以上、主として田辺和気子『新撰女礼鑑』1898 より)。

女訓書などに示されるこうした‘法’のなかには、どこかの土地の習俗なのか、著者の頼りない聞き覚えにすぎないのかと迷うような、奇妙なことも多い。

また古来より言い伝えにて、うのめがえし、無紋のもの、紫色、紅しぼり、しじらなど着て、産室に入るはよろしからず、(……)また七夜のうちは妄(みだ)りに生児の顔を人に見せず、産着を着するに、男の子は左の手より袖を通し、女の子は、右の手より袖を通させ、紐は結ばず打ちかけおくとし、(……)誕生日来るまでは新しき衣を着するを忌む、と言い伝えたり。
(篠田正作『女子修身美談』1894)

『東京風俗志』(1899~1902) の平出鏗二郎は、出産に関してはごく簡単な記述にとどめたが、そのなかで妊娠5カ月目の岩田帯には、やや詳しい説明をしている。岩田帯の功罪については、その時代医家のあいだでも意見が分かれていた。小さく産んで大きく育てる、という点については一般に否定的だったが、腹部をある程度締めておくことは、妊婦の生理にとってべつの利益がある、という見解の医師も多かった。

また1888(明治21)年という早い時期に、ある著者は、日本家屋も日本のきものも保温には不適当であり、とりわけ妊婦はお腹が大きくなるにつれ、着ているものがからだに密着しにくくなるから、もっと積極的にからだを冷やさない工夫を提案している。たとえば岩田帯は絹でなくフランネル製にし、またずり落ちないようにズボン吊りのような紐をつけること、さらに毛織物の半股引をはくことも勧めている。当時の女性は腰から上こそ襦袢、胴着を重ね、また幅の広い帯を巻いているが、下肢部分は腰巻一枚にすぎず、「殊に僻地の農婦などに至りては帯を纏わず、細き紐一筋を締め足れりとする者あるが故に」腹帯は保温のために必要である。しかしそれをつよく結んで、からだを締め付けるようなことがあればかえって害になると(小倉規矩『妊婦心得草』1888)。

マタニティウエアということばは、第二次大戦前にはまだ一般的ではなかった。それは洋装の普及状況からいって当然だろう。洋服でマタニティウエアが必要なのは、うち合わせの和服にくらべてからだのサイズへの許容性がないためだ、という人があるが、逆の意見もあった。

洋服は、ふわりと柔らかく着ますから、割りに目立ちませんが、和服は前をきちんと合わせ、帯を締めなければなりませんので、どうしても前に出たお腹の大きさが眼に立つようになります。いままで洋服を召していた方ならば、そのまま和服に代えずに洋服を着ていらっしゃった方が、目立たなくてよろしゅうございますが、和服の方ならば、どうしても着方で工夫するよりほかございません。
(小口みち子「妊娠の目立たぬ着附と作り方」【主婦之友】1927/6月)

また、女教員の服装についての座談会で、ひとりの中年の教員がこんな発言をしている。

衛生方面のことを考えても、妊娠のときなども洋服はよいですね。私は殊にぶくぶくの服を着ているものですから、九ヶ月までだれにも気づかれませんでした。
(【婦人之友】1931/10月)

ただし、このふたりの発言の時代がたまたま1920年代の鞘型のシース・ドレス(sheath dress)の流行期で、一般には身体の線があまり目立たない服だったという背景は、考えに入れる必要がありそうだ。

うち合わせ方でなんとでもなるような和服の場合も、「だんだん月が重なるにつれて、きものの前幅が足りなくなって、着心地も悪しく、またとかく着崩れがしたりいたしますので、側目(はため)にも不体裁なことはだれしも経験することで御座います」という不都合はあった。そのためにふだん着では、妊娠中のための特殊な仕立てかたがあったようだ。それは後幅はそのままだが、前幅と衽のつけ方にちょっとした工夫をするので、自分のきものはすべて自分で仕立てていた主婦にとっては、雑作もないことだったのだろう。下に着る襦袢にも、襟のつけ方の工夫でゆとりのあるものができた。これらはいわば和装のマタニティドレスといってよい。

授乳のときにも和服は都合がよい、という人のある一方で、そのために胸をかなりはだけなければならないと、ためらう意見とがある。筒状のチュニック・タイプを基本とする西洋の衣服ではたしかに授乳はしにくく、そのうえ乳房を人に見せない習慣があったため、なおさらだった。中世ヨーロッパには、女性のドレスの胸にスリットをいれるようなデザインも工夫されている。

その点に関して、洋装初期時代のわが国で意外に問題だったのは割烹着だった。1920年代(大正末~昭和戦前期)にかけては、日本の主婦たちにとっては割烹着の時代と言ってもよいくらいで、一日中家ではもちろん、ちょっとした外出は割烹着のまま、というひともすくなくなかった。そんな若い母が、赤ん坊が急に泣き出したときに、急いで割烹着をぬぐ手間がもどかしい、というのだ。そのために胸もとにスリットのある割烹着の工夫が、婦人雑誌に発表されているが、はたしてどれだけ使われたものか(「便利で恰好よい割烹着の仕立方」【主婦之友】1927/2月)。

(大丸 弘)