近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 526
タイトル 看護婦
解説

看護婦は開化後に生まれた女性職業のなかでも、教員とならんで、早くからそれ相当の社会的認知を受けた職種だった。

最初の看護婦の養成は、いくつかの医療機関のなかで、たがいに交渉は保ちながらも、別個に発展してゆく。そのスタートがほぼ同時期であるのは、社会的要請の高まりに応じてのこととして、当然といえるだろう。その時期が、ほぼあの鹿鳴館時代といわれた5、6年間(1885~1890)に合致しているのは、偶然といえない理由があるのだろうか。

看護婦養成の中心だったのは日赤東京病院で、1886(明治19)年11月に博愛社病院として東京広尾に開院し、翌年日本赤十字社病院と改称した。これから10年後の日清戦争終結までが日本赤十字社の、ということは日赤看護婦にとってもくるしい時期だった。日赤はいうまでもなくジャン・アンリ・デュナンによって1863(文久3)年に創設された、人道的救護を目的とする国際組織だが、もちろん当時のわが国にそんな理解はなかった。障害になったのは耶蘇のしるしの十字だった。この十字はデュナンの生国スイスの旗の、色を反対にしただけのことだったが、耶蘇禁制の高札が廃されて、まだそれほど時間の経っていなかったわが国では、疑いの目で見られたのはむりもない。

赤十字社は一般の誤解を解くために、おなじ時期に篤志看護婦人会の成立をはたらきかけ、これを赤十字活動の強力なバックアップとした。篤志看護婦人会には、皇族の女性をふくめた上流社会の女性方が多くいた。日清日露の戦役には看護婦の従軍はなかったが、戦場が比較的近かったために、多くの傷病兵たちが西日本の病院にはこびこまれた。そうした傷病者の看護に寝食を忘れた看護婦たちのすがたは、はじめて、看護婦というものがどういうものかを、一般に知らせる機会になった。同時に、看護婦たちにたちまじって、おなじ白衣を身につけて、高貴な女性たちの立ちはたらくすがたを目にして、看護婦たちへの敬意もましたにちがいない。『近代日本看護史』(1983)のなかで、著者は「日清戦争後、看護婦は一躍女性の人気職業となった」と書いている。

看護婦という存在は、直接治療にあたる医者とおなじように、弱い立場の患者にとっていわば強者の立場ともいえる。患者の意識のなかにあるいくらかのインフェリオリティー・コンプレックスと、ときにはいくらかの甘えとが、ほかの職業婦人とはちがう、看護婦独特のムードをつくる。

加えて、1890年代(ほぼ明治20年代)はもちろん、その後のかなりのあいだ、女性の洋装はきわめてめずらしかった。地方の農村から出てきた若い傷病兵などは、白い洋装の看護婦に近寄られるだけで、かなりの興奮をしいられたにちがいないが、それは平時の病院の、患者と看護婦の関係にもある程度は言えよう。そもそも、洋館建てといい、窓のカーテンといい、ベッドといい、白いシーツといい、病院自体が、その時代の標準的な日本人の日常とくらべれば、異世界といえた。とりわけ男の患者にとっては、看護婦はその異世界のなかの、文字どおり白衣の天使に見えたかもしれない。

日赤看護婦の看護服は、ほぼ同時代の欧米の看護服に追随していたから、1890年代の欧米のトップ・ファッションに近いスタイルを基準にしていた。この時代は看護服にかぎらず、特定の目的のための実用衣服でも、子供服でも、そのための機能を即物的に追うという考えかたは、まだとぼしかった。

と同時に、制服というものは、一旦きめられるとなかなか変えられない、という宿命ももっているために、看護服は1890年代のトップ・ファッションのなごり――怒り肩や高いキャップなど――を、半世紀ちかくもひきずっていった。

明治から昭和戦前までを通じて、小学校の女生徒にむかって、将来何になりたいかをたずねると、トップになるのはきまって、先生か、看護婦さんだった。そういう一種の人気に対して、逆に、かつて女としては高い収入の女髪結に浴びせられたような、意地の悪い陰口も、なかったわけではない。理屈っぽくて、陰気で、とても嫁のもらい手のないような女、そういう悪口は、1910年代(ほぼ大正前半期)にさかんになった、派出看護婦の時代に、とくに聞かれたのではないだろうか。

1920年代あたりまでは、看護婦の多くは養成所を出たあと、その養成所を運営する看護婦会に属し、看護婦会の周旋によって病院なり、医院なりの専属となるか、あるいはそのときそのときの依頼で病家に派出されるかの、ふたつの行き方があった。この時代でも病院勤めが看護婦としての正当な働き方だったろうが、収入の方は、病家次第でかなり水ものと言えたから、派出専門を選ぶ看護婦も多かった。とくに未熟な三等看護婦は、病院から採用されにくいためほとんどが派出に回ったらしい。

看護婦によろこばれたのは外科か性病――その時代の言い方で花柳病、そして結核の患者だったという。派出看護婦は、和服の上に白い上っ張りを着て病人の世話をする人が多かった(【婦人画報】1920/7月)。

その時代に派出看護婦が多かったのは、慢性的な女中の不足がひとつの原因だったかもしれない。第一次大戦による好景気はそれに拍車をかけた。家事で手のふさがった主婦に代わって、専門的訓練の身についた者に看護をまかせられ、また派出看護婦を雇っているといえばひと聞きもよい。

その派出看護婦について、早くも1909(明治42)年に、「看護婦の風紀について冷評悪罵のある現状から、有力な看護婦会の会長、経営者が会合し、堕落女学生の混入し易き看護婦会の掃討を期し、モグリ看護婦会の退治をも図り、斯界の革新に努めることになった」(「看護婦界の活動」中外商業新報 1909/11/26: 4)などという記事が現れている。

かなりいい加減な派出看護婦会もあったようだが、それにしてもある職業案内の看護婦項の、つぎの説明にはおどろく。

看護婦と申しますと直ぐ淫靡な女性の如く思うは半面の観察であります。
(鴨田担『女子の職業と其活要』1913)
(大丸 弘)