近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 525
タイトル 女教師
解説

女性が職業をもつことに批判的で、冷酷でさえあった明治・大正期の日本人が、ほとんど唯一みとめていた職業は、学校の教師だった。開化後の日本では、いろいろな分野に、女性の職業の道はすこしずつ開けていった。早い段階の看護婦、電話交換手、製糸や織布の女工、1890年代(ほぼ明治20年代)後半になると、商店員や事務員のような、ある程度教育を必要とする職種もこれに加わる。しかしそのどれもこれもが、執拗とさえいえるほどのからかいや、侮蔑の対象になる。そのなかで学校の先生というと、これは別扱いだった。

新政府は当然ながら一般教育を重くみたから、また同時に教育する者のありかたに対しても注意をはらった。1880年代(ほぼ明治10年代)は、不平等条約改正を見すえての西欧化の推進と、それに反発する守旧思想とのせめぎ合いのときだったが、それは教員のありかたにも反映している。1883(明治16)年5月15日、ときの文部大書記官は各府県知事への通達のなかで、女教員また女生徒の袴、靴着用を、異風であり、浮華である、として非難した(→年表〈事件〉1883年5月 「辻文部大書記官より通牒」読売新聞 1883/5/25: 3)。

女教員の袴すがたを異風とみたのは、明治初年からこの時代まで、一般に女の袴は男装とみなされ、キザな風と受け取られていたためだ。1878(明治11)年に大阪・堀江のある娼妓が、黒縮緬の羽織に仙台平の袴、靴をはきステッキを突いて座敷に出、教師手と呼ばれたという(→年表〈現況〉1878年4月 「大阪堀江廓の女教師そっくりな娼妓」朝野新聞 1878/4/11: 2)。女教員の袴すがたが、世間でおもしろがられていたことがこれでわかる。

この時期は東京のみならず各地方でも、学校教員が次第に洋服に代わっていた時期だった。官立東京女学校では西洋風の家事教室を建て、外国人教師と10名ほどの寄宿生とをそこに住まわせて、割烹裁縫接客の実地教育をおこなった。1889(明治22)年には、東京府学務課長から各私立小学校に対し、教師はなるべく洋服で執務するようにとの諭達が出されている(→年表〈事件〉1889年1月 「私立小学校の教室」絵入自由新聞 1889/1/16: 19)。

これらの流れをたどると、さえぎることのできない洋装化のなかで、女性教員は取り残されているらしくみえる。女性教員は洋装の前に、女が袴をはくことへの好奇や非難の眼を、まず乗り越えなければならなかったのだ。

そののち長いあいだ、男性教員の洋服が定着する一方で、女教師の多くは和服に袴という、女学生時代の姿を、そのまま教壇にももちこんだものと考えられる。

時代は飛んで1928(昭和3)年、東京市内の女教員会は、女教員の服装に関する審議会を設置、「小学校女教員は原則として洋服を着ること」との決議をしている。それを受ける意味も兼ねて、3年後の1931(昭和6)年10月、雑誌【婦人之友】は女教員の服装を特集した。羽仁もと子の司会する女性教員たちの座談会は、明治大正期における女性教師の洋装化のプロセスをかいま見せて興味深い。以下、その座談会での発言の一部を紹介する。

・7、8年前(1923、1924)に全国女教員会で、「女教員の服装を如何にすべきか」という諮問を全国の会員に送った。そのときは洋服反対論が多く、結局、「なるべく洋式のものを用いること」という決議にまとめられた。
・現在の東京市内の小学校で、洋装の女教員の割合は、20~30パーセントくらい、80パーセントくらい、全員――と、学校によってさまざま。洋装できない理由は、校長が不賛成、年寄りの先生が着ない、生意気と感じるひとがいる、女教員と見られるのがいや。
・公衆の前での非難がある。「お前のような女がいるから国防が危うくなる」、「お前は日本人か、アイノコか」、「親兄弟がないのか」。
・女教員は流行の先端を走るために洋服を着るのではなく、働くために便利な服装をするという立場で着るべきで、そうすればご老人方の心配するような結果にはならないと信じます。
・私たちの主張しているのは、外国のものをそのまま真似したような洋服ではありません。洋服式の着物なのです。現に着ているのは、着られなくなった黄八丈のよいところをとって仕立てた、簡単なものですが、長袖に袴とは比べられないような働きよさです。
・和服に洋服の長所を取り入れていくと、却って両方の長所を消し合って見にくいものになってしまいます。これまで改良服がひとつも成功しないのはそのせいだと思います。洋服の方が時代的な服装だと思ったら、洋服を着るべきです。洋服はこれまで長いあいだ研究されてきているのですから、自然にそこに洗練された調子があります。もちろん洋服を取り入れるといっても、不必要な習慣まで取り入れることはいけませんが。(羽仁もと子)
・AさんやBさんがお着になった時分はいわば洋服の建設時代で、恰好はともかく、率先して洋服を着る、という点に意味がありました。ところが今は、洋服を着ることはむしろ当然のことになりましたから、折角着るなら自分に似合うものを着たい、チャンとしたかたちをしたいと思うものですから、なかなか着られなくなります。

ひとりの女教員の発言につぎのようなものがあった。

洋装をして青山1丁目から電車に乗ったとき、乗客の大部分がいわゆるルンペン風の自由労働者だった。彼等は私の姿を見ると、しきりにからかいだした。口惜しいと思ったが降りるに降りられずじっと我慢していた。電車が霞町までくると、どやどやと生徒が乗ってきて、口々に先生おはようと挨拶した。すると今まであれほど悪口雑言していた人たちが、なりを静めてしまったのです。彼等は私がなんで洋装しているかわかったようです。ひとりの男が生徒に、あれはお前の先生かいと訊いていました。その子は「そうよ、とてもいい先生よ」と無邪気に答えています。そのうち広尾に着くと労働者の一団はみんな下車しましたが、わざわざ私の前を通って、ひとりひとり会釈して降りていきました。済まなかったというような表情をして。私は思わず涙がこぼれました。そして教師という職業の貴いことを、思わずにはいられませんでした。

先生は別扱い、という考えかたがここにもみられる。

それから3年後の1934(昭和9)年、【婦人之友】とはちがう観点をもつ【婦人画報】には、つぎのような指摘があった。

職業婦人の中で、もっとも洋装が普及し、また普及する勢いを見せながら、その姿の洗練されないことで代表的とも云えるのは女教員でしょう。(……)彼女達が、甘んじて野暮な風をしなければならないのは、いろいろな外的な理由もありましょうが、ひとつには洋装に対してはっきりした知識をもとうとしないことも挙げられると思います。
(→年表〈現況〉1934年2月 「堅実・スマート・活動的」【婦人画報】1934/2月)

筆者はそう言って、アメリカの映画女優が着たファッション・フォトを紹介し、「これをそのまま着てもモダンに過ぎるとか、奇抜であるとかの非難は受けまいと思います」と結んでいる。

ちょうどこの時期は、少女時代から洋服で育ち、すでに和服の着かたがあやしくなった世代が、大都会のペーブメントにはふえはじめたときだった。とはいえ教壇で日々生徒たちの前に立っている、とりわけ中年をすぎた女教師の多くは、洋服の知識のあるなしの問題ではなく、いやむしろ洋服がわかっているからこそ、自分たちのどうしようもないなにかが、もう洋装の時代からとりのこされていることを、はっきり感じていたのかもしれない。

(大丸 弘)