近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 524
タイトル 女中
解説

ここでいう女中は、一般家庭や商家の家事使用人、いまいうお手伝いさんのこと。料理屋、待合、旅館、下宿の女中、とりわけ料理屋の女中はべつの専門職なので、ここにはふくめない。

下女という古い言いかたもときおり使われていた。文章のなかでは下婢ということが多い。「お三」とか「おさんどん」というのは悪口。江戸、東京では近県の農村出身者が多かったため、おさんどんイコール山だし、という考えかたがあり、すがたや身なりについても、その点からバカにする風があった。新聞挿絵でも女中といえば、丸顔でペチャンコの鼻、ドングリまなこ、背が低くて大道臼のような尻、というきまった描き様から、なかなかぬけだせなかった。

その一方で大きな商家では、吉原などへはとても行けない身分の、性に飢えた丁稚手代などの、手近な相手にもなっていたようだ。落語の〈梯子〉にはそんな様子が描写されている。はなしは逆なのだろうが、江戸の川柳で房州女、相模女というと、そういう点ではずいぶんひどい侮辱をこうむっている。しかしひとつ家に若い女性が寝食を共にしているのだから、そういう関係がまったく起こらないとしたら、むしろ不自然かもしれない。また、主人や若様の「お手つき」のはなしは多い。志賀直哉のある短編のなかでは、暗い廊下でゆきずりに手を握ったとき、愛する女の手が意外に固かった、と書いている。女は日夜労働している身分なのだ。彼はこの女性との結婚を希望して父親と衝突している。

何人もの女中を置いている大きな家では、台所仕事をおもにする下女中と、家族の身のまわりの世話をする上女中、もしくは奥仕えを区別し、それに女中頭が怖い眼を光らせる、という情景になる。もちろんこんなかたちは華族家などのごくわずかだが、主人や奥様、あるいはお嬢さまに仕える小間使という身分は、明治の小説には頻繁にでてくる。お嬢さまの小間使のなかには、乳母がそのまま長年(ちょうねん)した、お母様より頼りになる老女中もよく出てくる。落語でいえば「雪とん」とか、「なめる」などの重要な脇役。

お嬢さまと老女中とのこんな関係は、親子以上の親愛の情で結ばれているのだろうが、少なくとも明治時代までの日本人は、それを主従の絆(きずな)、といっていた。徒弟制度が仕事の内容についての契約関係ではないように、女中奉公ということばがまだ生きていた。

1913(大正2)年刊行の『婦女の栞』中の下女教訓は、つぎのように教えている。

一 御主人様方の事は親よりも大事に候まま少しも粗末の心なく奉公を大切に務め 可申事

徒弟制度では、小僧(丁稚)時代の10年ほどは無給金だった。仕事をおぼえさせてもらうのだから、というのがその理由。だから女中奉公にも似たような考えかたがある。江戸時代の、町人の娘が上がる屋敷勤めは、お手当があっても雀の涙。着るもの、身の廻りのほとんどは家からの持ち出しだった。時代が変わって、給料こそ人なみに出るようになったが、御屋敷勤めを誇る気持ちはかなり後までつづいた。口のきき方や、お辞儀の仕方に、アアあの人は若いときなになに様の御屋敷にいたからね、とうなずかれる。

主従の差別を重んずる気分は、古い慣習が根づよい土地では消えにくかった。1891(明治24)年の[国民新聞]に寄せられた大阪風俗のレポートに、どこの土地でも外出には、主婦とくらべて小間使、乳母、下女など、すべて雇われの人が劣った身なりなのはいいとして、大阪では、下婢にはかならず一種独特の髪を結ばせ、帯の両端を重ねて垂らしている、とある(国民新聞 1891/5/7: 1)。

また1914(大正3)年の京都のレポートは、つぎのように伝えている。

京都は古い都だけに、階級制度がキチンと極まっております、たとえば、女中がお嬢さまのお供をして外を歩く時は、必ず後から慎ましやかについて歩かせます、東京あたりのように、お嬢さまと女中が並んで話をしながら歩くというようなことはありません。それに女中には冬でも羽織を着せませんし、主人のお供をする時は必ず草履を穿かせます、服装も必ず主人より粗末なものを着せて、どこまでも女中らしくさせてあります。
(「昔を守る京都の婦人」【婦人世界】1914/6月)

女中には仕着せを与えるのがふつうなので、「女中さん向きの安くてみばのよい物」の紹介が新聞の家庭欄にもよくある。なにもそう差別する必要はないようなものだが、そうしないと来客に、奥様と女中さんの区別がつかないから、という説明もあった。

また主婦やお嬢さんの着古したもの、傷んだもの、気に入らなくなったものを与えるという習慣もあり、いくぶん流行遅れでもけっこう上等な銘仙などを、外出着として女中さんがよろこんで着ている、といったこともよくあった。着道楽で、しかも気前のいい奥様のいる家に長いこと奉公した女中が暇をとるときに、行李いっぱいのそうしたきものが、国もとの素朴な母親をおどろかす、などということもあったそうだ。

奥様から下がった少々傷みのあるきものをほどいて、縫い直すにしろ、あたらしく買ってもらった木綿きものを自分用に仕立てるにしろ、女中が自分のための針仕事をするのは寝る時間を節約するしかないのがふつうだったが、だんだんと、家族のための裁縫の時間のなかの一日二日を、女中さん自身のもの用にしてくれる、という家がふえてきた。女中さんをだいじにする時代になっていた。

昭和に入ってまもない1929(昭和4)年には、〈着物の柄まで差別撤廃となる〉という見出しで、つぎのような記事が現れている。

面白いことに最近は従来の如く同じ二十歳前後のものでも、花柳界向き、一般向き、または女中さんと、それぞれ柄の上にも差別があったものが、こうした階級的差別が無くなり、いわゆる大衆的の柄が好かれるようになってきた(……)。
(東京日日新聞 1929/4/10: 8)

女中の待遇を引き上げたのは、1900年代に入ってから目立ってきた女中不足だった。1900(明治33)年12月の[朝日新聞]で、女中の志望者がいないため一段と給料が上がった、と報じているのが(→年表〈物価・賃金〉1900年12月 「女中の払底」朝日新聞 1900/12/27: 5)古い方の記録で、大きくいえば次第に社会問題化してゆく(→年表〈現況〉1917年4月 「女中の払底」大阪毎日新聞 1917/4/10: 3;→年表〈現況〉1918年1月 「女中と女工」都新聞 1918/1/7: 2)。

その一方で、水道が各家庭に引けたため女中を解雇する家が増えたとか、女中を雇わないでも済む家事のやりかたを考えようという提案も現れている(→年表〈現況〉1904年5月 「水道と女中」朝日新聞 1904/5/23: 5)。

(大丸 弘)