| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 523 |
| タイトル | 職業婦人 |
| 解説 | 1920年代を中心に職業婦人の服装が話題となり、問題となったのは、いうまでもなく、職業婦人の存在自体が注目をあつめたためだ。欧州大戦後の、解き放たれた女性の職業進出は世界的現象だった。女性が職業人として生きてゆくことの周辺には、いろいろなレベルの偏見や困難のあったのは、わが国だけのことではない。 職業婦人という枠で、ある特定のタイプの服装を指すことはできないが、わが国の場合、一般に彼女たちの服装は、女性の洋装化のひとつの突破口となった。1926(大正15)年に今和次郎は、銀座の店舗での観察に基づき「現代職業婦人服装考」という小文を新聞に寄稿して、つぎのように結んでいる。 洋装は仕事によって和服に比較すると遥かに仕事に対する適応性があり、働くのに便利なように、幾らにも工夫が出来る。ゆえに、少しでも働こうという労働観念があれば、その服装も洋服を基調として変化されてゆくのは当然の傾向であろう。 このころから婦人雑誌に、「職業婦人用の洋装」、「優美で働きよい新案婦人仕事服の仕立て方」、「新型の職業婦人服二種の仕立て方」といった記事がめだつようになる。 こうした流れを受けて1929(昭和4)年、東京の松屋百貨店で「職業婦人洋装陳列会」が開催され、翌月には【アサヒグラフ】にも見開き2頁で紹介されたから、反響はあったのだろう。【アサヒグラフ】は追ってつぎの年、〈流行の混線〉というタイトルの流行紹介組写真のなかで、職業婦人のスタイルを概括して「スマートな感じ」と評し、その理由をつぎのように説明している。 何故に彼女らはこのスマートの姿を狙うようになって来たのか。それは職業婦人の時代となって来たからで有る。スマートは能率を連想せしめ、能率は経済的優越を暗示している。 「職業婦人洋装陳列会」を主催したのは、東京市小学校女教員修養会という組織だった。女教員は、職場の服装問題ではその中心にいたグループのひとつだった。看護婦を除けば、職業婦人として社会的にもっとも安定した地位を確保していたのは、女教員であった。看護婦の場合は、赤十字社の看護婦を中心に、肩の膨らんだ、なじみの看護服が国際的にもほぼ固定していて、論議の余地がなかった。それにくらべると女の先生たちの恰好については、批判、提案が多く、紆余曲折を経なければならなかった。 すでに1923(大正12)年の全国小学校女教員大会で、女生徒は洋服または洋服式、女教員は家庭事情その他の理由から、職服として洋服をもっとも適当とす、と決められていた(→年表〈事件〉1923年5月 「女教員が洋服を着ることを決議」【主婦之友】1924/1月)。しかしその実行は一向進まなかった。進まなかった理由は、とくに中年以上の教員が、はずかしがって洋服を着ようとしなかったこと(→年表〈現況〉1927年11月 「投書―女教員の洋服」朝日新聞 1927/11/19: 3)、一方で彼女たちのなれない洋服の不恰好さは、児童の情操に悪い影響をおよぼす、という、かなりきつい意見もあり、またなによりも、不経済であるという批判があった(都新聞 1925/10/27: 9;12/23: 9)。結局、1935(昭和10)年になって、東京市だけは、上記小学校教員会女子修養部(改称)の考案による、黒サージのスーツとブラウス、ということで決着している(→年表〈事件〉1935年3月 「女教員の制服(式服)が決まる」朝日新聞 1935/3/31: 夕2)。 この東京市の女教員服は、いわゆる標準服というかたちで決められたので、制服のような拘束力をもつものではなかった。また世間からはやや閉ざされた場所――学校内の教壇で、特定の人だけが着るものだから、影響力は少ないだろうが、児童の情操云々の意見があるように、生徒たちに与える効果、その心に刻まれるイメージは、たしかに大きなものがあったにちがいない。 それに対して、ひらかれた場所で着用され、社会的にはよりつよいインパクトをもっていた職業婦人の服装は、バスの女車掌だった。東京市は1920(大正9)年という早い時期に、37名の女車掌を採用した。「大正の婦人界に新しい職業婦人として名乗りを揚げた市街自動車乗込の女車掌(……)」といった紹介もあった(「女車掌三十七名の勢力揃い」読売新聞 1920/2/2: 4)。 制服のデザインから、俗に赤襟という愛称をもらった彼女たちは、3年後には200人にふえ、「皆十八九より二十四五までで、なかなか美人が多い(……)」などと書かれたりしたが、その存在が、「どんなにか我々都会人の殺伐にさえなった、角張った感情をやわらげ、潤わしてくれるか」と投書してくるひともあった。また、約10年後のマスコミは、「31年の美はまさに、働く女の姿にこそ(……)勇ましい赤襟女、キッとふんばった姿こそ(……)正に正に動的の美(……)」と賛美している(読売新聞 1931/1/15: 5)。洋服を着られる、という理由で、バスの車掌を志望する娘さんもいた(→年表〈現況〉1924年12月 「洋服が着られる女車掌志願」報知新聞 1924/12/13: 8)。 女性の職業進出が話題になりはじめたのは、1890年代末(ほぼ明治30年代はじめ)だろう。「日本では女のする商売は労力を売る商売(仕事)でなければ淫を売る商売である。淑女としての仕事は先ず産婆くらいとは驚き入った」と言うエッセイが書かれているのはそのころで、そのなかには、日本でも近年は日本銀行、電話交換局、為替貯金管理所、鉄道局で女性の雇員を採用しはじめたが、商店の店番に女性がすくないのを西洋人がおどろいている、とも書かれている(朝日新聞 1900/9/27: 7)。 3年後の1903(明治36)年12月13日と14日の[二六新報]は「女子の職業」というつづき記事を掲載し、「女子の職業といえば昔は産婆か女髪結にかぎられ、今も尚教師か医者か看護婦か、然らずば電話交換局か紡績会社等の工場に雇わるる工女ぐらいにて、其外に女子の職業は無きものの如く思いなされ居る」としたうえで、「三井呉服店は昨年(1902(明治35)年)女子職業学校より6人採用し、成績すこぶる良好なるため昨今は一般より募集して現在26人、白木屋その他の呉服店、企業でもすこしずつ採用がはじまっている」と女性の職場のひろがりを報じている。 そのときからすれば、職業婦人の服装が話題になったのは20年も後のことで、女性の職業進出のひろがりは明治の半ばとは比較にならないが、にもかかわらず職業をもつ女性への偏見は、なくなっているわけではない。女が家庭を出て勤めをもてばからだが穢れる、といった考えかたさえ生きていた。つぎの警察官の文章は大震災の4年前のもの。 近来は主に下層階級の未亡人でありますが、工業の発達につれて職工を多く使用するところから工場に入る者があります。そうすれば相当の収入が得られて生活の困難はありませんが、其処まで身を落とさずに生活してゆくには、他の補助を俟たずしてはほとんど不可能であります。 偏見の中身は時代によって変化していて、たとえば1920年代末(昭和初め)になると、時節柄、「世間では職業婦人とモダンガールをゴチャゴチャにしています」といったようなこともあった(「誤解されている職業婦人の服装」国民新聞 1927/6/1: 6: 6)。 こうした発展のなかでふしぎともいえるのは、もっとも重要な職業婦人であるはずの家事従事者――女中さんのすがたが浮かびあがってこないことだ。新聞挿絵のなかの女中といえば十年一日のように、丸顔で獅子鼻、不恰好なずんぐりした身体に、たすきがけ前垂れの奉公人以上には出世していない。結局は割烹着と、軽快で働きやすい各種のホームドレスの時代を待つしかなかった。 職業婦人とそのスタイルのイメージは、ひとつひとつを見れば各種各様ではあるが、すくなくとも1910年代(大正後半)以後は、全体としてはプラス・イメージとしてひろがり、その中にはある世代、ある人々のアイドルであるようなイメージも、あったと考えてよい。 (大丸 弘) |