近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 522
タイトル 丁稚/手代/番頭
解説

親方のもとで寝食を共にしながら仕事をしこまれ、やがて一人前の伎倆が身につくと、独立して今度は自分が親方となる、という徒弟制度は、ドイツのマイスタージンガーでおなじみのように、ヨーロッパで中世以来維持されてきた職人育成のシステムだ。しかし考えてみるまでもなく、これは職業教育のもっとも単純な、基本的な方法だ。だから時代と文化のちがいはあっても、世界のどんな地域にも、技能者を育てるための、似たようなかたちはあるはずだ。

ただし、 江戸から明治にかけての時代に典型を求めるにしても、職人と商人とではちがうし、職人でも職種によってずいぶんちがい、商人の場合にしても扱う商品と店の規模のちがいがあり、その土地独特の風習もある。

江戸末期――東京のすこし大きな呉服商などを例にしてみると、小学校を出たくらいの年で小僧に、関西でいう丁稚に入るのがふつうだった。たいていは知りあいの口利きだが、父親がむかし奉公した店のような場合は、譜代の奉公人ということでとくに目をかけられる。勤めることは奉公といい、年限をきめるので年季奉公といって、その年季証文をつくった。もし自分の都合で途中でやめるようなことがおきれば、それまでの食い扶持を日にいくらで返却するのだ。それでわかるように、これは労働契約ではなく、子どもに喰わせて、着せて、仕事を教えてやるという恩義の約束なので、だから主人とは文字どおり主従の関係であり、その意志には絶対服従になる。

年季の期間は10年までがふつうだった。職人の場合はもっと短く、職種によっては3、4年で終わるものもある。商家の奉公人は小僧が10年、それに1年の礼奉公、だいたい20歳くらいで元服といって一人前として認められ、手代となってそれからは給金が出る。稀にはそれからべつの店に移る人もあったらしい。全くべつの職種に変わることはむりだから、習い覚えた仕事のなかでも、なにか特別なことにたけているとかで、店どうしの納得の上で職場が変わる。その場合は新しい店の方では中年(者)などと呼んだらしい。

手代になると給料を頂戴し、羽織を許される。ただしこの辺は店によっていろいろのようだ。それから7、8年経って番頭になって、はじめて羽織を着られる店もあるし、しかし店から羽織を着て出ることは遠慮する、という心がけも必要だった。

番頭には住込みと、妻帯して自分の家から通う者とがいた。どちらにせよ番頭はやがて主人から資金を出してもらって別家(べっけ)する、いわゆる暖簾わけしてもらうことになる。それは主人の恩義のようだが、結局は給料の一部を積みたてているので、その積みたてが不足なのかどうかわからないが、主家の2階で飼い殺しの生涯を終わる老番頭も、めずらしくはない。

こういう絵に描いたような慣習は、落語の「百年目」の枕でも説明されているが、明治から大正、昭和と時代が変わるにつれてすこしずつくずれ、そして消滅した。1920年代の末ごろ(昭和初期)、このようなシステムの現状についての社会学的な調査が各地でおこなわれ、そのデータが残っている。そのうちもっとも大規模だった、大阪市の呉服業界についての1930(昭和5)年のデータ『大阪市社会部調査報告書9 昭和3年 5 本市に於ける呉服店員の生活と労働』をおもな資料として、徒弟制度の近代をかいまみよう。

上にのべた「絵に描いたような」慣習を、この調査では仕着別家制と呼んでいる。仕着(しきせ)というのは、主家にいるあいだの衣食を、ぜんぶ主人から給与されるため。江戸時代には商人といえば縞の着物に角帯、前垂れがけと、判でおしたようにきまっていて、縞といっても唐桟のような高価なものや、盲縞(めくらじま)のような職人じみたものは避けて、たいていは松阪木綿とか、河内木綿とかだったが、大きな店では番頭はなに、それも一番番頭は結城紬、二番番頭は伊勢崎、というふうにきまっていた(→年表〈現況〉1897年11月 「奉公人百話」報知新聞 1897/11/5: 2)。また別家というのは、然るべきときには主人の費用で暖簾わけをして、別家をたてる約束があるため。その仕着別家制のもとにいる店員が、この調査の時点ではぜんたいの80パーセントを超えていた。のこりの大部分は住みこみ給料制の店員で、通勤給料制という、現代のもっともふつうの勤務形態をとっている店員は、百貨店だけ、という状態だった。徒弟制度は第二次大戦以後にはまったく崩壊しているのだから、そのわずか十数年前までは、大部分の店舗が江戸時代とそう違ってはいなかったということは、古い習慣の根づよさと、それを上回る、戦争の社会構造への打撃の大きさを痛感する。

もっとも、変わらなかったといっても昭和になってからの丁稚が、まさか河内縞の半天に千草(薄草色)の股引、というわけにはいかない。明治・大正になっても、正月とお盆の藪入りは小僧さんで盛り場がにぎわったが、当時の写真を見るとめだつのは、チョン髷の代わりに、申しあわせたように鳥打帽をかぶっていることだ。

商店員にくらべると、物づくりに従事する職人は、徒弟制度風の就業形態がさらにくずれにくかった。徒弟制度は、封建時代のたいていのシステムがそうであるように、すべてつよい側の利益になるように、ものごとが決められている。徒弟があまり早く仕事を覚えないように、仕事以外のこと――子守や家事にこき使い、肝心の仕事はできるだけ教えないで、見て盗め、と言い放つ。そうしてわずかのことにケチをつけて追いだした。その結果は5人に3人、10人に7、8人は脱落する。またそうしなければ、一人前の親方がふえすぎて困るのだ。

徒弟制度は、とりわけ技術の習得にとっては不合理、非能率だった。親方は口を開くと、一人前になるには30年かかる、だからお前も30年辛抱しろ、と鼻をうごめかした。もしその30年が25年にでもできたら、その親方は有能とまでいわなくても、まだましなのだが。

工業高校や、専門学校の新しい、理に適った教育方法が、徒弟制度にとって代わったのはこの頃のことだが、むかしかたぎの職人は学校出を嫌い、わるく言い続けた。

(大丸 弘)