近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 521
タイトル 人力車夫
解説

人力車のはじまり、発明については諸説があるようだが、1871(明治4)年11月の、東京府下町々の風俗取締12箇条中に、群衆中人力車ヲ走スヘカラス候事、という1条があるところをみても、開化後の早い時期に普及がすすんでいたことがわかる。

1872(明治5)年の4月に人力車を対象とする最初の規制〈人力車渡世ノ者心得規則〉が、東京府令として公布され、すぐつづいて〈宿駅人馬並人力車等取締規則〉が内務省令として公布された。

交通に関する法規は原則として地方の所管だった。その後のいくつかの例をひろってみると、1874(明治7)年の、人力車、馬車内で頭巾や手拭いの頬冠で顔を隠す者とか、幌を下げている者は、巡査の尋問を受けることがある、という東京府達は、その時代の治安の悪さをうかがわせる。1886(明治19)年、和歌山県は男女相乗りの人力車を禁じている(→年表〈事件〉1876年11月 「男女相乗りの人力車を禁ずる」読売新聞 1876/11/13: 2)。おなじころの東京では、二人乗り人力車は一人乗りの2、3倍の台数があった。二人乗りが一人乗りの倍額ということはなかったが、乗る人にも、また車夫にも割得だったためだろう。

1881(明治14)年12月に、東京府は最初のまとまった〈人力車取締規則〉を公布した(→年表〈事件〉1881年12月 「人力車取締規則公布」郵便報知新聞 1881/12/9: 1)。あわせて人力車組合規則が定められ、営業者内部での相互規制もはかられている。取締規則は見直しがくりかえされるが、輓子(ひきこ)とよばれる車夫の服装については、要するに半纏股引を着るべし、というきまりをどう守るかが中心の課題だった。

1881年の規則には輓子の服装についての言及はなく、はじめのうちの車夫の服装は、まったくまちまちだった。人力車の出現によって消滅したのが駕籠屋だったから、駕籠舁(か)きから転業した車夫も多かったろう。駕籠舁きといえば、江戸時代でも裸商売の代表といってよいくらい。だからすこし暑くなれば褌ひとつに近い車夫も最初はいたに違いない。明治初年の人力車夫は、手足の満足な男であればいちばん取っつきやすい商売だった。青雲の志を抱いて上京してきた書生の車夫はめずらしくなかった。黒澤明のデビュー作品《姿三四郎》(富田常雄原作)で、恩師の矢野正五郎に出逢ったときの三四郎は、今でいうアルバイトの書生車夫で、絣の着物を尻ばしょりしている。近隣の百姓の、農閑期の日銭稼ぎでは、ねじり鉢巻の野良姿もある。木賃宿でごろごろしている素性の知れない流れ者が、飲み代稼ぎに商売することもある。

規制のゆるかった時期には、車宿でわずかな歯代(借賃)さえだせば、だれだろうがその日の車夫商売ができた。そのため最初のうちの人力車は、車夫の風儀の悪いのと、車夫の着衣、車のケットなどの不潔なのとが問題だった。客の膝にかけるケットは、客待ちのあいだ車夫がくるまっていることがある。女客のなかには、それを気持ち悪がるひとも少なくない。1896(明治29)年の内務省訓令では「頬冠リ鉢巻其他不体裁ノ形装ヲ為スヘカラス」とあるほか、伝染病、疥癬、癩病患者、及び乞食体の者を乗せてはいけないとか、車を汚染するものや、悪臭を留める物品を乗せてはならないことを規定している。

1889(明治32)年の〈東京府警察令〉では、輓子の服装は紺色の法被、股引に限る、とされた(→年表〈事件〉1889年 「人力車営業取締規則公布」【警察令】第19号 1889/4/26)。6年後に、白い服装は清潔なものであれば黙許、との内示があり、ただし白の法被に、異色の襟をつけることは許さないと、けっこう細かな規定がある。

翌1890(明治23)年には、6月1日から10月31日までのあいだは、長股引でなく半股引で営業させてほしいという、組合の申し出が認められた(→年表〈事件〉1890年6月 「暑熱に向かいて」東京朝日新聞 1890/6/20: 4)。明治30年代半ばのこの頃になると、人力車夫の決まったスタイルができあがったようだ。雨天には桐油合羽、ゴム曳き合羽を着、あたまには晴雨にかかわらず饅頭笠か帽子をかぶり、足は紺足袋の足袋はだし、または素足に草履ばき。ただし1901(明治34)年、ペスト予防のため、東京市内では屋外でのはだし歩行を禁じられたとき(→年表〈事件〉1901年5月 「跣足禁止令の発布」毎日新聞 1901/5/31: 3)、人力車夫が馬丁、車力等とともにとくに注意を与えられているのは、そんな威勢のいい車夫がいたということだろう。

車夫はかならず組合に所属して鑑札を受けなければならなかったが、鑑札さえもっていれば自分の車で自前の商売ができる。1897(明治30)年のデータでは、東京府下の車夫44,430人中、自前の車夫は18,064人。また、28,455人が借り車の車夫、残りの2,000人あまりが抱え、という数字がある。

抱えの車はお手車という。お手車に乗って嘯(うそぶ)いているのが、この時代の紳士の見栄だったらしい。営業車の車夫の着る半天には番号がついているので、車が黒塗りのお手車然としていても、輓子の半天を見れば営業車だということがすぐわかる。それで気のきいた営業車の車夫は、番号のついた半天の下にべつの半天を着ていて、客が乗ると下に着ていた半天をうえに着替えて走りだし、それでお客を得意がらせてやる、というサービスもあったそうだ(「人力車の番号」朝日新聞 1903/1/7: 7)。

華族さんなどのお抱えになると、お嬢さまの学習院通いのお供をするくらいが主な仕事で、月々のお手当のほか一軒の家を与えられることもある。1900(明治33)年頃の東京の抱え車夫のみなりについて、つぎのような説明がある。

供部屋にいるときは、主人の換紋、または径一寸ほどの苗字の頭字を縫紋にした紺法被を着、萌黄フランネルの三尺を緩く締めているが、いざお出かけのときは、刳襟の紺腹掛、筒袖襦袢(前襟を紐で括った、車夫仲間で「づんど」という)、紺の長股引、底三枚のはだし足袋、という恰好になる。
(「問答欄」【流行】(流行社) 1900/4月)

人力車夫は威勢のよさが売物の商売で、けっこうあこがれるひともあったらしく、華族のなかで印半天に盲縞(めくらじま)の股引をはき、人力車夫の真似をしたため、華族籍を剥奪された変わり者もいた。まるで落語の、火消しが好きで家をとびだし、勘当された「火事息子」のようなはなしだ。

その車夫の客待ちが東京駅前から消えたのが、1938(昭和13)年のことだった(→年表〈事件〉1938年3月 「東京駅から人力車消える」東京日日新聞 1938/4/1: 3)。そのころは車夫の多くはもう若くはなかったが、それでも黒鴨(くろがも)などといわれた、濃紺の腹掛股引で、けっこう姿のいいじいさんもいた。

(大丸 弘)