テーマ | 着る人とTPO |
---|---|
No. | 519 |
タイトル | 火消し/鳶 |
解説 | 鳶職と町火消しの関係はいまの人間にはわかりにくい。わかりやすく説明されるのは多く江戸時代の制度だ。明治にはいっても、現在でも江戸火消し連中による正月の出初め式が残っているように、旧時代の制度しきたりが急になくなりはしなかったが、時を追ってくずれてゆき、いっぽう官制の消防組織は制度がめまぐるしく変わったため、旧来の火消しと官営消防との関係など、正確にあたまに入れるのはむずかしい。 鳶職と火消しとはもともとべつのものだ。鳶職は普請場の人足で、足場を組むなどの高い所での作業が多く、いまは足場鳶、鉄骨鳶、配電鳶などに分かれている。足場を組む手際も熟練を要するから、現場では鳶さんといわれて重んじられている。 江戸時代には整地から足場組み、建物の解体まで、普請・土木作業の全般的な仕切りをする人間だったようだ。江戸の下町には町で抱えている鳶職がいて、そのいわゆる町鳶がいまなら区役所など行政の仕事になるインフラ関係や、町内や個々の商店の雑用までを受けもっていた。仕事師という呼びかたもされていた。住民に危害や迷惑を与えるような人間を追いはらったり、火事がおこれば消火作業をするのは、彼らが交番や消防署の代わりでもあったためだ。建築職人である鳶職と、消防団と、地域の警護と雑用係が、町鳶という名前の威勢のいい人足連中に任され、それをとりしきっている人間を頭(かしら)と呼ぶ。頭はだいたい町内に一人ずついた。江戸をはじめ当時の都市には、きまった住民税というものがなかったから、町鳶を抱えるために大店が負担する費用がそれにあたる、と考えればよい。 享保時代以後、江戸に町火消しができたことはよく知られている。火消し――消防の仕事は、町鳶たちが負担しているたくさんの業務のひとつで、いろは四十八組の組織を大岡越前守らがつくった、ということになっているが、行政からはなんの手当てもない。 新政府では、上下水道や道路の整備、防犯、消防といった住民サービスのほとんどが行政の責任となり、その結果鳶職の居場所はなくなった。近代の前半分、明治期は、その過渡段階とみていいだろう。 1880(明治13)年に内務省ははじめて公募の消火卒300名を任命し、おなじ時代の巡査に近い制服制帽を制定した(→年表〈事件〉1880年4月 「東京府消防隊の制服決まる」郵便報知新聞 1880/4/10: 2)。乗物をはじめ消火器具も外国製の新しいものになり、纏や鳶口しか知らないそれまでの火消し人足では、用がたりなくなったのだ。しかし一方で鳶頭、小頭、纏持ち、梯子持ち以下の消防組も存続させたから、彼らは相変わらず半天に股引のかっこうで火事現場にとびだしていって、新しい消防隊と張りあった。1930(昭和5)年に勤続40年で表彰された老組頭はこう振り返っている。 面白かったのは消防隊ができた翌(あく)る年だったか俺たちはなにをこの田舎のサーベル上がりめと軽蔑しているところへ、消防隊の野郎は又いやにお役人風を吹かし、にらみ合ったのが出初めの当日、足を踏んだとか踏まねえとかくだらねえことがもとで大喧嘩がおッぱじまり、人殺しがあったりして(……)。 鳶とか火消しとかいうと、江戸っ児の勇みの見本のように思われていたから、宵越しの銭はもたず、喧嘩っ早くて、むこうッ気のつよいお兄イさんが揃っていた。またそれでなくては、火のなかにとびこんではいけないだろう。 江戸時代は鳶の者で、彫物(ほりもの)のない男はなかった。入れ墨というのは手首などに入れられる刑罰のしるしで、入れ墨者といえば肩身が狭いが、倶利伽羅もんもんなど見栄で彫るのは彫物、刺青、文身といって区別している。開化後は堅気の鳶に彫物のある人はめっきり減って、むしろ博徒が脅しに彫る方が多くなったかもしれない。 町鳶が看板と呼んでいるのが仕着せの半天だ。もっとも年中半天を着ているのは鳶だけではない。縞のきものに前垂れ姿というのがお店(たな)者、商店員の恰好とすると、居職出職を問わず職人はみんな半天に股引、紺の腹掛というのがおきまりで、すくなくとも明治時代を通じてはほとんど変わっていないようだ。 半天は出入りの商家から、襟にその家の名の入ったものを盆暮れに与える。これは鳶職にかぎらず、大工、左官などの職人衆はみなたくさんの出入りの旦那場をもっているから、名入りの半天を何枚も重ねて着るのが見栄だった。なにか不始末をしでかすと、その家の半纏を着るのを差し止めるようなこともあったようだ。東京の下町にはそういう義理や習慣がかなり後々まで残っていて、故老の思い出ばなしのなかには、まるで江戸の風俗がまだそのまま生きていたような事例をたどることができる。 半天の上等なものは革製だった。年始の挨拶などには、頭は訪れる家のしるしの入った革半天を一番上に着る。半天でなく革羽織であることもある。 明治末年の三越の【時好】の回顧談のなかに、筆者春塘の幼い頃、明治初年の、鳶の頭の正月の晴着が紹介されていて、そこでは頭は革羽織を着ている。 新年には大紋つきの皮羽織を着し(……)、衣類は紬織へ鼠と紺で当番、則ち組合の纏の頭を染抜き、黒八丈の広袖で裏は孰れも花色絹、上着の下へは友禅縮緬の胴着を、四五枚重ねて黒八丈の襟を揃え、帯は茶献上の博多を神田結びに締め、喉のくくれるような腹掛、素足でなければ皮並という盲縞(めくらじま)の股引、(……)皮並とは足の皮とおなじように仕立て、弛みのないのを誇ったものだ、之を脱ぐには踵へ竹の皮を宛てて、二人掛かりでで引っ張らねば脱げないと云う。 しかしもちろん半天をもらうだけでは食べていけない。商店の新築や、増築、蔵を建てるときには鳶職の力が必要だ。明治時代でも、蔵ひとつ建てると頭の手に50円から100円はわたったという。町内のドブさらいや、正月の注連縄張りなど町全体にかかわる用もある。火事となれば彼らの晴れ舞台で、江戸時代には、焼けなくてもジャンと鳴った半鐘の数で、戸一枚につきいくら、という割りの小遣いがわたったそうだ。ともあれ鳶たちの収入は不安定ではある。そのために六代目圓生の落語〈質屋蔵〉にあるような、旦那の家から沢庵漬けの樽でも上等の履物でも勝手にもちだしてしまうような、遠慮のない出入りの頭がでてくるのかもしれない。 開化期以後の消防制度をもっともよく説明しているのは、明治期については、おそらく1899(明治32)年4月5日の【風俗画報】第186号に掲載された「火災消防に関する制度の沿革」だろう。また太田臨一郎の『日本服制史』(1989)の消防夫・消防官の項は、昭和戦前期にまでわたって制度の改正にくわしい。 とくに明治期については、法令集等の資料で示されている制度と、現実の消防夫の姿とのあいだには、かなりのズレのあったろうことは、頭に入れる必要がある。その時代、軍服や警察官の制服さえ、制度はできても、供給のまにあわなかったことは常態といってよかった。 (大丸 弘) |