テーマ | 着る人とTPO |
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No. | 516 |
タイトル | 警察官 |
解説 | 同時代の新聞によると、維新当初の東京の治安の悪さは今では考えられないくらいで、押込み強盗のたぐいが毎晩のようにどこかにあった。その一方で、それに対する警察力がどうなっていたかがはっきりしない。記録としては、1868(明治元)年の鎮台府設置と市中取締兵隊の編制、翌年の弾正台の設置など、法令公布のあとはたどれるが、それらがどう機能していたのか、実効性のほどはよくわからない。 1871(明治4)年になって、東京府下に邏卒3千人が採用された。翌1872(明治5)年、邏卒のほかに番人が置かれ、ともに「区内ノ安静ヲ警保スル」というあたりから、組織、身分待遇、武器、服装等をあわせて、ようやく警察制度と警察官の具体的なすがたが見えはじめる。 近現代の警察官の服制を知るためには、太田臨一郎『日本服制史』(1989)の第9章「警察官」を参考とすればほぼ十分だろう。ただし、この本では詳細にすぎるとか、図がもうすこしほしい、というひとのためには、国立民族学博物館のサイトから公開されている〈近代日本の身装電子年表〉の〈事件〉の欄から、以下の項目をピックアップしよう。本電子年表では、警察官の服装と関連事項のうちで、比較的大きなトピックと画像については、文書画像のかたちで提供している。 なお警察官の服制の基本は、1890(明治23)年以後は勅令によっているが、細部については地方の実情にしたがう場合もある。ここにあげているのは、主として東京府において施行のもの。 ・1871年10月 東京府で邏卒3千人の任命。 明治時代における警察官の服装改正はめまぐるしい。もし改正が法令どおり施行されていれば、それによって時代判定のよい手がかりになるはずだが、新政府の財政事情のため、新しい制服、容装への移行はつねに遅れぎみだった。1883(明治16)年の巡査の帯剣にしても、かなりの期間、洋刀(サーベル)がまにあわず、日本刀とサーベルが入り交じって佩用(はいよう)されていたらしい。 ひとつには、これは警察官にかぎったことではないが、外来の衣服、道具への不慣れ、ということもあったろう。大阪では夜警の警官に、靴では音がするという理由で草履をはかせたことがあり(→年表〈現況〉1880年2月 「夜警巡査の靴」朝野新聞 1880/2/7: 2)、角灯は使いにくいというので、丸提灯にしたこともあった。東京でも、巡査の武器がまだ警棒だったとき、それでは思うような働きができないということで、十手が復活したことがあった(→年表〈事件〉1881年4月 「巡査に十手」郵便報知新聞 1881/4/4: 2)。 刑事にあたる職務は明治時代は探偵と呼ぶのがふつうで、密偵巡査という言いかたもあった。私服警官とおなじ意味で和服警官、ともいう。新聞小説の挿絵などではたいていは鳥打帽に袴、靴ばきというこしらえ。これでは一見して刑事風、とわかってしまいそうだが、袴はかならず着用と義務づけられていて、犯人と格闘の場面でもこの恰好。袴をはくように義務づけられたのは、刑事巡査の風体があんまり悪かったためとも考えられる。 探偵の下に、江戸時代の下ッ引きか手先にあたる人間がいたらしく、密偵といわれたのは、あるいはそれかもしれない。 たぶんこの密偵を指しているのだろうが、維新後しばらくのあいだは、彼らには江戸時代の岡っ引きめいた風儀のわるさがぬけなかったのか、1891(明治24)年の[郵便報知新聞]につぎのような指摘がある。 日本の探偵は大工となり職工となり馬丁となり博徒となるに於いては敢えて西洋の探偵に譲らざるも、紳士となり代言人となり学者となる点に於いて遥に彼に劣る処あり其は誠に故あることなり日本の探偵は旧幕時代の「ヲカッピキ」より変化し来たりたるもの多ければ目に一丁字なきものすらあり…… 第二次大戦後の警官の姿と比較して、戦前の警官のめだった特色は、肩章とサーベルだろう。ことにサーベルをガチャつかせ、というのが警官のイメージにあった。また髭を生やしたお巡りさん、というイメージもあった。戦後、警官が八字髭のような髭をはやすことは禁じられている。 ヴィジュアルなものではないが、警察官の「オイ、コラ!」もきまり文句のように考えられていた。維新後に生まれた巡査のイメージには、当時比較的多かった鹿児島出身者の国訛りの影響があるといわれる。暴力犯罪の多かった当時の東京で、安月給で危険な職務につこうという東京人は少なかった。官軍といっしょに江戸に入ってきた西南日本出身者の多くが、そのまま東京の治安を護る役にまわったのはしかたのないことだった。1886(明治19)年公布の警察官礼式心得のなかでは、人民に正常に礼をうけたときには、これに答礼するはもちろんなり、とし、1899(明治32)年の、ときの大浦警視総監は訓示のなかで、警察官が人民に対し粗暴な態度をとることなく丁寧であるようにと戒め、相手に呼びかけるにはモシモシ、と言うように、と注意している。ただし、土方立ちん坊のような連中には、従来どおり、オイオイでかまわない、と言っているのはこの時代らしい(→年表〈現況〉1899年4月 「オイオイとモシモシ」時事新報 1899/4/21: 5)。 近代の警官のありかたを考えるとき、わが国の場合、交番の存在を忘れることはできない。交番という独特の施設が生まれたのは、江戸時代の自身番、辻番の経験からともいわれる。1874(明治7)年にはじめて巡査が任命されたとき、これを各屯所(警察署)から町の要所要所の交番所に配置した。当時の交番所は人ひとりが入れるだけの大きさで、おそらく陸軍の歩哨所をまねたものだったろう。そのひとつが、現在犬山の明治村に保存されている。巡査は傘(手傘と呼んだ)を差すことはできないため、雨天の立番にはこのなかに入れたが、寒いからといって入っていることは許されなかった。 1881(明治14)年には交番所は正式には派出所と改称。交番はだんだん大きな建物になり、なかで執務も休息もできる現在の形式になった。交番は戦前の東京市街では、電話ボックス、公衆便所と並んで、大都市の機能に欠かせないものとして親しまれた。 (大丸 弘) |