近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 513
タイトル モダンガール
解説

英語の モダンガール(modern girl)は当然、モダンシティ(modern city)、モダンイングリッシュ(modern English)などとおなじように、現代の若い女性、という意味でふつうにつかわれるが、1920年代半ば頃(昭和初め)から、Modern Girlsと大文字を使ったりイタリック体にしたりして、特殊なニュアンスをもたせるようになった。それは欧州大戦後の、いわゆるローリング・トゥエンティーズ(Roaring Twenties)に生まれた新しいタイプの女性、自由奔放で古い権威に無関心な若い女性たちを指した。フランスのヴィクトール・マルグリットが1922(大正11)年に発表したベストセラー小説『ラ・ギャルソンヌ(La Garconne)』に代表され、ギャルソンヌ(garconne)とか、アプレゲール(apres la guerre)とか、英語でフラッパー(flapper)などともいわれた。このうち、アプレゲールは第二次大戦後も、とくに日本で、アプレゲール、アプレ、として流行している。

スタイルの点ではもちろん1920年代(大正末~昭和初め)のトップファッションで、凹凸の少ない筒型のシルエットと、膝丈の短いスカート、短く切った髪、が特色。全体として一見ボーイッシュであることから、ギャルソンヌ、つまり、女のような少年、といわれたのだが、当時としては思いきって露出的で、化粧は一般に濃厚、それによって倒錯的魅力をねらったことはあきらか。その点では第二次大戦前後のマニッシュスタイル(mannish style)とはまったくちがう、退廃性を匂わせている。

パリの一流デザイナー、シャネルの代表作ジャージー・スーツも、このギャルソンヌ・スタイルの潮流のなかにあったが、「ひざというのは美しいものではないから、出さないほうがよい」という彼女自身の意見でもわかるように、オートクチュールにはオートクチュールとしての、誇りと抑制があった。ローリング・トゥエンティーズの本当のそれらしさは、ジャズと、チャールストンと、ギャングと、密造酒酒場の国、アメリカに生まれていたのだ。1920年代から30年代初めにかけて(ほぼ大正末~昭和初期)の日本のモダンガールも、はるかに幼稚で臆病ではあったけれど、先生は太平洋の彼方のアメリカだった。

モダンガールとは一体どんな女性なのか、という疑問に対して、帝劇の女優・森律子はつぎのようにまとめている。これは彼女が近く上演の劇中でモダンガールに扮するため、銀座、丸の内方面で、そうと見られる女性たちを生態観察した結果によるとのこと。

①自由で解放的で、若さを享受する態度
②男のように足を外股にむけ、大股で歩く
③行く人の目を惹くような新しい着物や、芸術的なもちものを持つ
④むずかしいのは歩き方や身のこなしで、とくに和服のモダンガールの場合は、酌婦のように見えないよう気をつける
(森律子「私の見たモダンガール」読売新聞 1927/6/30: 3)

やや畑違いの宗教学者・陶山務は、モダンガールのイメージとしてつぎの点を挙げた。

①断髪、あるいは耳隠しの髪
②洋装
③脂粉の香の漂うこと
④その月の【文藝春秋】を持ち、フランス語の小説と、フランス語の独修書を持つ
(→年表〈現況〉1927年1月 陶山務「マドンナとモダンガール」婦女新聞 1927/1/9: 18)

また、モダンガールとはどんな女性か、に答える調査結果として、つぎの事例は興味ぶかい。東京四谷の職業婦人相談所は、「結婚に於いて職業婦人の嫌われる理由」という聴きとりを、当の職業婦人と、その結婚後の家庭においておこなった。ところがその結果を伝えた[読売新聞]は、コラムの見出しを「モダンガールの特徴・欠点を調査」とすり替えている。思うにこの時代、職業婦人とモダンガールとは、重なるイメージをもっていたこと、またコラムの見出しとしては、職業婦人よりモダンガールとした方が、読者へのアピールがあると判断したのだろう。その結果は以下の通り。

・だらしがなく、かつ、礼儀を知らぬ。
・なんとなく情味に乏しく、すべての点において理屈っぽい。
・日本固有の女性らしさがない。
・なにかといえば直ぐ自分から別れ話を持ち出す。
・割合に贅沢で、買い食いが好き。
・経済観念に乏しく、金を使うことを何とも思わぬ。
・夫や舅に仕える気持が稀薄。
・出歩くことが好きで、出ればなかなか帰ってこない。
・羞恥心に乏しい。
・掃除や勝手仕事が嫌い。
・来客があれば夫を差し置いて、主人顔をして喋ることが好き。
・男を何とも思っていない。
(「モダンガールの特徴・欠点を調査」読売新聞 1926/7/5: 11)

1920年代の末(昭和初頭)になると、モダンガールに対するこうした反感は、ややエスカレートしてきた感がある。1927(昭和2)年5月に東京府下の婦人相談所、婦人宿泊所の責任者が集まって、モダンガールについての研究懇談会を開いた。そこではつぎのような意見が出されている。

・今のモダンガールなるものは、物質欲の旺んな、かつ肉に飢えた、むしろ淫蕩的な面も毛唐かぶれした者である。
・銀座や東京駅あたりをうろつくモダンガールには、むしろ急激に東京かぶれした、地方の不良少女が多い。
・欧風かぶれのモダーンスタイルは、悉く映画から来ている。そうして心の堕落は、劣等な婦人雑誌から来ている。
(国民新聞 1927/5/25: 6)

モダンガールの跳梁(ちょうりょう)した1920年代後半(昭和初め)も、東京の流行の舞台――ファッション・ステージは銀座と考えられていたから、モダンガールのイメージには、断髪、洋装、銀座――という3点セットが結びつくように考えられやすい。

しかし事実は上に見るように、その時代の人々は、洋装をモダンガールの欠かせない要素とは考えていないらしい。断髪は、新聞雑誌での話題性の方がにぎやかで、東京都心の美容院でも、断髪の客は日にひとりかふたり、という程度だった。またモダンガールはしばしば職業婦人とまぎらわしく見られていた、ということからすれば、それらしい女性たちの多かったのは、銀座通りよりも、丸の内のオフィス街だった、という点も理解しておく必要がある(→年表〈現況〉1926年11月 「ラジオ趣味講座」報知新聞 1926/11/13: 8)。

東京駅前に丸ビルの竣工したのは大震災直前だったが、それ以前に7階建ての海上ビルディングができていたし、このふたつに匹敵する郵船ビルなどがつぎつぎと建設されていた。丸ビルひとつでも、毎日そのなかのオフィスに勤める人の数は4,500人、その2割が女性で、「すなわち職業婦人約七百五十人が、毎日丸ビルに勤めていると云うわけだ」と、今和次郎は『新旧大東京案内』(1929)のなかで強調している。

(大丸 弘)