近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 512
タイトル 女学生
解説

第二次大戦前の女学校は、1899(明治32)年の〈高等女学校令〉によって、ほぼその法的枠組がつくられている。入学年齢は12歳以上、就学期間は4年、ないし5年(→年表〈事件〉1899年2月 「高等女学校令公布」【勅令】第31号1899/2/7)。

【風俗画報】1905(明治38)年9月号の巻頭の論説「学生の風紀」のなかで、筆者の野口勝一は学生を堕落せしめる3つの原因のひとつに、女学生の跋扈跳梁(ばっこちょうりょう)を恣(ほしいまま)にする事、を挙げている。野口は板垣退助などに近い政治家で、このころは地方新聞の社長だった。彼が実見するところによると、3、4人の女学生が下宿屋の2階でお喋りしていれば、話題は初めから終わりまで男学生の噂で、少しでも見よい学生とみると、いわゆる交際を名としてその家に出入りしてそれを友人に誇り、男学生もまた「自ら粧飾して」その愛を迎えようとすること、「藤原時代の殿上人淫蕩俗を為したる時の如し」云々。

女学生の素行に対する世間の目は、きびしいというより、少々えげつないとさえいえた。この3年前、【都の花】が募集した川柳の、「女学生」という題の秀逸は「小夜衣海老茶式部は重ねて着」だったが、入選作40余点のほとんども、女学生の妊娠を揶揄したもので、そのうちのかなりのものは相手を教師としている。「先生の親切女学生の腹で知れ」。

1920(大正9)年になってさえ、同世代の娘のなかで女学校へ行けるのは5人に1人だった。まして明治時代であれば中学出の男性さえわずかだった。江戸時代以来の、女性を性の対象物としてしかみない風習に加えて、大衆のある種の嫉妬心も、女学生、あるいは「女学校あがりの女」に対する、根強い偏見の背景になるだろう。

もちろん一方で、女学生の海老茶の袴に廂髪、のイメージは、その時代の若い男性のあこがれの対象ではあった。廂髪の流行は日露戦争(1904、1905)以後のことで、そのすこし前の女学生の標準的スタイルはほぼ次のよう。

髪は額一杯に大きく前髪をとった銀杏返しに、十二三歳以下はリボンにて結んだ下げ髪。袴はほとんどが海老茶。履物は多数が黒革の半靴。冬は着物に羽織または被布を重ねる。
(「流行欄―男女学生の風俗」【流行】(流行社) 1901/6月)

もうすこし時代を遡った日清戦争以前、1876(明治9)年生まれの小説家、山岸荷葉の記憶によると、女学生にかぎらず、明治20年前後のその年ごろの少女の髪は、つぎのようになる。「親戚知己の子女が、やはり時の流行で、メチャクチャに束髪に結ったものである。(……)上げ巻、下げ巻、マーガレット、イギリス巻、通人巻。その内少女は前髪を切って、眉の上まで下げる。一寸可愛いかったものである」(山岸荷葉「洋髪の先祖『新装 きもの随筆』1938)。

荷葉が下町の生家から山の手の漢学塾に移ったのがたまたま明治10年代末の縦型束髪の最盛期であり、束髪はとりわけ山の手が中心だったから、少年の眼につよい印象を受けたにちがいない。

日露戦争後、髪は束髪が多いが、いい家庭の令嬢には日本髪の桃割れがだいぶあり、またほかにマーガレットやお下げ。通学のとき着る着物はせいぜい銘仙か紬だが、なかには縮緬だの御召だのを着ている人もある。柄でいちばん多いのは紫がかった矢絣で、ほかは縞物が多い。

袴は海老茶のカシミヤがふつうだが、跡見女学校の紫の袴のように、海老茶だけだったわけではない。「海老茶式部」というあだ名の命名者と自認している荷葉は、華族女学校も最初は紫の袴だった、という記憶をもっている(山岸荷葉「洋髪の先祖」『新装 きもの随筆』1936)。時代はかなり下がるが、宝塚音楽学校がオリーブグリーンを採用すると、その色を真似る女学校もあった。履物は上品向きには靴か三枚草履。下駄もけっこうある(→年表〈現況〉1907年7月 「東京女学生間の流行」【衣裳界】(十合呉服店) 1907/7月)。

明治時代には、女学校に制服というものはないのがふつうだったが、このようなかっこうで本包みらしいものを抱えている少女をみれば、それで女学生ということはわかった。しかし東京にかぎってみても女学校は数多くあり、当然それぞれに性格のちがいはある。そのなかでお嬢さま学校といえば、やや別格ながら華族女学校/女子学習院(1918(大正7)年以降)を挙げなければならない。華族女学校は華族以外の入学も認めていたから、上流家庭の姫君たちの、この学校での教育内容や規律、あるいは日常生活の影響は小さくなかったろう。

華族女学校に次ぐお姫様学校は虎ノ門の東京女学館といわれた。その対極には、職業学校的性格のつよい共立女子職業学校などもある。明治・大正期の女学校には、一般に年齢の高い生徒が多かったが、共立のとくに専門部は、女性の自立を目的とした技術教育を重視していたため、20歳代の独身女性、夫を喪った子持ちの女性などもめずらしくなかった。生徒に前垂を掛けさせたのもこの学校らしい。

明治の終わり頃から、各女学校では制服をきめようとする動きがみられる。これは先行した男子校同様、その学校の生徒である自覚と誇りをもたらしめる、という建前と、学校側からは生徒統制の方策でもあった。他の女学校の生徒と街でも区別しやすいため、という理由から、襟に徽章をつけさせる、というようなことにとどまらず、袴に白線を入れたり、めだつような揚げをしたりなど、地方の女学校にはずいぶん変わった制服もあった。だから生徒統制というような考えに同調しない学校は、制服への積極的な反対の意思表示をしている(→年表〈現況〉1915年4月 「非制服主義の女学校」大阪朝日新聞 1915/4/14 神戸版 附録: 1)。

またひとつには、日露戦争から第一次大戦にかけて、日本人の各層とも生活が向上し、着るものもぜいたくに、まためだってはでになり、娘の身の飾りの出費に苦労する家庭からの要望、という面もあったろう。

その制服に、いわゆる改良服を採用する学校の多かったのが、1920年代前半(ほぼ大正後期)だった。学校長などがみずからデザインした奇妙な服が、学校長の抱負と顔写真といっしょに地方新聞によく載っていた。

これとほぼ同時期か、やや遅れて、洋服の制服採用の時代がはじまる。1910年代(ほぼ大正前期)は、子供服に洋服が積極的にとり入れられはじめた時代だった。関東大震災以後の東京横浜などでは、街角で遊んでいる子どもに、きものすがたはめずらしいくらいになっていた。女学生のセーラー服姿はそういう流れの延長線上だろう。

昭和の女学生のイメージは、セーラー服とオカッパ頭に代表される。水兵服は欧米では前世紀末からの流行で、かならずしも若い人ばかりのものではなく、もちろん少女服でもなかった。わが国へも大戦のはじまるころには紹介されているが、おもに海浜着としてだった。その後、少女服としてさかんに推奨されるようになったときも、運動服として、あるいはその運動性を重くみて、勧められている。

1928(昭和3)年の時点では、女学校の制服の50パーセントがセーラー服であり、残りの半分がチューニック、と報告されている(「女学校校服を統一する運動」都新聞 1928/9/24: 11)。

おなじセーラー服ならば、もっと統一した方が経済的、という主張のある一方で、1934(昭和9)年に訪日したベーブ・ルースの娘のミス・ジュリアが、アメリカの女学校で制服のあるのは、尼僧院付属の学校くらい、日本の女学生は「ほんとにお気の毒」という発言を残している(「日本の女学生さんはお気の毒ね」読売新聞 1934/11/12: 9)。

(大丸 弘)