近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 511
タイトル 昭和の学生
解説

時代が昭和を迎えるころ、明治時代の荒っぽい書生さんのイメージが変わった理由は、ひとつには学生スポーツの人気だった。スポーツ人気は学生だけのものではなかったが、はじめのうちは白い目で見られていたらしい西洋人の遊びに、積極的にとびついたのは学生たちだった。明治初めのお雇い外国人教師のなかには、ときおりアマチュアのアスリートがいて、彼らに指導されてフットボールや野球、テニス、登山、スキー、アイススケートのおもしろさを知るようになったのだ。1880、90年代(ほぼ明治10年代~20年代)に、学生野球における第一高等学校の黄金時代があった。それはべつに、一高に運動神経のすぐれた若者が集まった、というのではなく、外来文化の受けいれについてのアンテナが高かった、というにすぎなかったろう。

学生スポーツのなかでも大衆の人気がもっとも高かったのは、関東大震災以後の東京六大学野球だった。六大学野球への熱狂は、毎シーズン最後の早慶戦においてピークに達する。1929(昭和4)年春、秋には、慶應の宮武三郎(1907~1956)、早稲田の小川正太郎というスター選手が神宮球場で対峙し、いやが上にも熱気を煽った。その背景のひとつにはラジオの普及があったにちがいない。そして、関西のエンタツアチャコのしゃべくり漫才「早慶戦」が、野球人気に便乗するかたちでヒットした。

香川県出身の宮武三郎は、甲子園で全国優勝の経験も持ち、慶應に進んでからは打っても投げてもよいスタープレーヤーとして、早稲田の必死の挑戦もうけつけなかった。豪快で、明るく、にくめない人柄だった彼は、たしかに、当時の銀座裏で大モテだったという、慶應ボーイらしさを代表するひとりだ。

明治の書生のみんながみんな苦学生ではなかったように、昭和初期の学生がみな、天下の遊民ではなかったはず、なのだが、新聞の三面記事や、通俗小説の筋書き中では、スポーツのみならず、社交ダンスにも、自家用車のドライブにも、伊豆や信州高原の避暑にも、入り交じっているか、グループをリードしているのが、かならずしも慶應ボーイではなくても、ハイソサエティの親をもつ、金まわりのいいハイカラ学生なのだった。

そういうハイカラ学生は1920年代(大正末~昭和初め)になると、もうだれもが、金ボタンの学生服になっているようだ。学生服の前合わせのボタンは5個、袖口は2個ずつがふつう。ボタンが多いのでよくとれる。学習院だけは、ボタンがけでなくホック掛けで、縁が蛇腹になっているのは、官軍士官式で異色だった。

蛇腹ホックでも詰襟であることは変わりなく、学生服といえば詰襟とほぼ決まっているが、要するにこれは軍隊、警察、鉄道員等に共通する、官公吏現業職員のスタイルだった。だから、というわけか、立襟のホックを外したり、そこから下に着ているシャツやとっくりセーターを覗かせたりすることは、反抗的な、不良っぽい恰好とされた。もっとも襟を開けないのは、下に着ているシャツの襟の汚れているのが隠せて都合がいい。

学生服を夏冬2着揃えてもっている学生は少なく、たいていの学生は一着きりだったから、ところどころ変に光っていて、異臭のするものがある。もっともそれは女学生のセーラー服でもおなじことだった。冬でもオーバーを着ない学生が多く、だれもがスプリングコートを着るようになるのは第二次大戦後のことだ。

学生服はほとんどが黒だった。黒い上着に、薄い色の替えズボンをはくのは、これも戦後になって、銀座あたりで遊んでいる慶應ボーイの特色とされた。

着ているものにそんなヴァラエティはあっても、学生である以上制帽は放さない。それは和服の場合もおなじだ。学生帽にはクラウンと台の部分がはっきりと分かれたケピ帽、あるいはカスケット型のキャップで、固いツバがつき、顎紐がある。このかたちのキャップはそのいろいろなヴァリエーションが、おもに軍帽として、ヨーロッパではひろく用いられた。わが国でもすでに幕末にフランス式軍装の一部として模倣されて以来、軍帽、あるいは官公吏現業職員の帽子として定着した。そのため学生帽には、その先祖や親戚たちとのイメージ結合がどうしても避けられない。

その意味でシンボリックだったのは、1943(昭和18)年10月21日の、東京の明治神宮陸上競技場における、出陣学徒壮行会の光景だった。氷雨のなかを銃を肩にした学生たちのすがたは、学生服の色さえカーキ色かなにかにすれば、そのまま軍装になるのだ。

召集免除の制度を撤廃し、ごく一部の専門課程以外の学生を戦地に送ろうという考えそのものは、戦況が緊迫化してきたこの時期のものだが、大学専門学校中学校の学生生徒を、万一の時の予備軍的にとらえようという意図は、新しいものではない。そのもっともゆるやかな構想は、学校体育に兵式体操を組み込もうという試みで、すでに1889(明治22)年、東京ではじまっている。この年の1月、東京府の公立小学校では、高等科の生徒に兵式体操を教授することになり、体操科教員の検定試験科目にも兵式体操を追加することがきまった(→年表〈事件〉1889年1月 「東京府下の公市立小学校」時事新報 1889/1/14: 3)。

小学生の体育に銃器まで使用させようというこのときの試みが、どこまで成功したかは不明だ。しかし軍が、よりはっきりしたかたちで、普通教育の体操授業への介入をはじめるのは1909年以降のことになる(→年表〈事件〉1909年10月 「文部省、中学における体操の調査に着手」朝日新聞 1909/10/16: 3)。

そして1925(大正14)年になると、その4月11日の〈陸軍現役将校学校配属令〉(勅令第135号)によって、いわゆる配属将校の制度がはじまる。対象は小学校を除くすべての教育機関だった。第一次大戦後のワシントン条約によって軍備の縮小を迫られたため、それを補うために、極端にいえば「学校教育を軍事教育化し、学校を兵営化する」という言いかたもあった。もっとも、軍縮余剰士官の就職先、という悪口もあったが。

彼女をマイカーに乗せてのドライブに明け暮れている学生、教室ではなく、グラウンドやテニスコートに通学している学生、そして政府にとっていちばん頭の痛い左傾学生――そういった連中に徳育を施し、配属将校の痛めつけによって服従心、義務心を徹底的に養う、という政府の意図がどこまで成功しただろうか。

(大丸 弘)