近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 501
タイトル 神社と神主
解説

戦前戦中とくらべて、敗戦後に権威の落ちたもののひとつは八百万の神様たちだろう。むかしは神棚のない家というのはめずらしかった。戦時中のことだが、あるクリスチャンホームでは神棚をもたなかった。小学校で先生から、神棚のない家は人の住む家ではなく、ただの箱にすぎないと教えられた子どもが、父親に泣いてせがみ、仕方なく父親は夜店で小さな神棚を買ってきて、長押の上に飾った、というはなしもある。

仏間があるというような家はべつとしても、仏壇はわりあい低いところにあるのに対し、なぜか神棚は高いところにある家が多い。それは神様という存在に対する心情のようでもある。『神まつりとその作法』(1936)という本では、「神棚の奉安所は、従来、高い所高い所と考えてきたようだが、あまり高すぎると、御供えするにも不便であり、之がため最も大事な御供えがおろそかになるという欠点がある」と注意している。

神棚といっても、棚はお供物をのせるだけが目的の、一枚の白木の板にすぎないこともある。そのうしろの壁にお札(ふだ)、つまりいろいろな神札(しんさつ)が貼られている。もっと簡略になると、お札を長押や柱に貼り付けるだけ、というのもある。台所の荒神様のお札などはそうしている家が多かった。落語の「富久」では、幇間(ほうかん)が義理で買わされた富札を、家の大神宮様のなかに入れておく、というより隠しておく、ということになっているから、小さくてもお宮を持っていたのだろう。芸人はこういうことには金を惜しまないものだ。この幇間が留守のあいだに家が丸焼けになったが、知りあいの鳶の者が気を利かしてお宮を持ちだしてくれていて、千両の当たりくじが焼けずにすんだ。家財に目をくれず神棚だけを持ちだす、というところに、この時代の人の考えかたがある。

神棚には洗米を供える家もあるが、毎朝炊いたご飯の初穂を小さな皿に盛って供えるのがふつうだった。そしてそれは主婦や子どもではなく、一家の主人の役割、としている家も多く、神棚が高い場所でもそう困らなかったのはこのためもあるかもしれない。毎月一日(ついたち)には赤のご飯を炊いて御供えする家もあった。おいしいものや、めずらしい頂きものを御供えすることもある。ただし獣の肉はけっして御供えしない。それどころか、家族ですき焼きを囲む夜などは、神棚に白い紙や布を張りめぐらせた時代もあった。日本の神様は血の穢れを不浄として忌むためだ。だからメンスの女性は鳥居をくぐれなかった。家族や親戚どうしでなにかのお参りのとき、母親ひとりが鳥居の外で待っているのを、子どもがふしぎがったりした。

神棚に祀るお札――むずかしくいえば奉齋する神札――の並べかたは、天照皇大神を中央にして、その土地の産土神(うぶすなのかみ)などのお札を左右におく。御札は土地の産土神社で毎年新しいものを受けるべきことになっているが、そんな律儀な人ばかりいないので、神社の方から御札を売ってまわることが多かった。「御札くばりのようなかっこうだ」といわれるのがそれで、五つ紋の黒羽織に袴をはき、白か濃い紫の着物を着て、どことはなしに威厳もあったが、腰のひくい人が多かった。そのお愛想に社紋の入った打菓子を置いていくので、子どもなどはそれが楽しみだった。その打菓子のことをお供物とよんでいたのは、神饌のお下がり、ということだったのだろう。

御札くばりをしてまわるような社人は、大きな神社ではごく下の階級の、お寺でいえば寺男のような立場の人かもしれない。世間では神社に奉仕する人を神主とよんでいるが、神社に仕える人たちの身分はすこしわかりにくい。神主の職制や身分がわかりにくいのは、神社に祀られている神様自体のわかりにくさとも、多少は関係していそうだ。

日本の神様のわかりにくさは、仏教の渡来などよりはるかに古い時代からの、土着の信仰から発しているためだろう。自然そのもの、そして遠い先祖や、語り草にのこる偉人、英雄たちを主とした死者たちの霊、そういった奥深くて、おそろしく、また慕わしくもあるこの国土の過去の記憶、その堆積の断片が、日本の社の原型なのだ。水木しげるの世界に近い、といえるのかもしれない。

かつて新来の仏教教団は、この不可解な存在をとりこむために、本地垂迹(ほんじすいじゃく)というようなロジックをつくりだした。明治政府は天皇政権の精神的支柱としてこれを利用するため、国家神道という宗教に格上げし、全国10万の社を教団的体制に構築した。神社は格付けされて、官幣国幣の社に仕える人は勅任官奏任官以下のお役人になった。

1902(明治35)年には官国幣社職制についての勅令が出され、宮司、権宮司、禰宜(ねぎ)、主典の序列が定められた。ただし遠くから参拝者が訪れるような名の通った神社でないお社については、府県や市町村にゆだねられ、1894(明治27)年に、社司一人、社掌若干人と定められていた。神前結婚や地鎮祭で斎服を着、お祓いをしてくれる神主さんの多くは、正式には社司、という身分の人だろう。神主さんに神前結婚の司式などを頼めばお礼はするが、神主さんは府県や町村から俸給を貰っているサラリーマンだった。

けれども神社としての大きな収入源はお賽銭で、それはいろいろな名目のお祭りにはうんと増える。神社の正式な例祭はふつう年1、2回だ。その日は屋台店がならび、神楽殿をもつ社ではお神楽が演じられ、都会の神社では御輿や山車が出て、お正月とはまたちがった活気のある、年いちばんの賑わいとなった。明治になって神社が国家と結びつくようになってからは、国の祝祭日にはみんなが神社にお参りをする習慣がつくられ、それは小中学校の教育のなかでもおしすすめられた。

例大祭以外にもお宮さんには小さな祭日や行事があって、やはり夜店が出る。それは縁日といって、新聞の芸能欄の下の方に今夜の縁日として予告される。テレビはもちろんなく、ラジオさえまだなかった時代、夏の夕食後の1、2時間を、ゆかたすがたでアセチレン灯の匂いが漂う縁日歩きは、子どもたちだけでなく、大人にも楽しいひとときだった。1923(大正12)年の統計では、大阪市(当時4区)の、夜店の出る縁日の回数は、79カ所で1カ月平均278回、ひとつの縁日の屋台が平均61.3軒、となっている(大阪市社会部『余暇生活の研究』1923)。

神社の神主さんは、お寺の坊さんとちがって、参拝の人々とはいくぶんへだたったところにいるように感じられた。神主さんは世襲ではなく、試験の合格者が任用され、よそから来た人が多かったせいだろうか。神社には説法というものがないためだったろうか。それともあの古代風の斎服が、神々しすぎて近寄りにくかったのだろうか。神主さんの斎服は、1912(明治45)年の勅令、1913(大正2)年3月に公布された〈神官神職服装規則〉で最終的に規定されていて、お祓いをしてくれるときには狩衣がふつう(→年表〈事件〉1913年3月 「神官神職服装規則公布」【内務省訓令】第4号 1913/3/25)。しかしふだん社務所では白小袖に紫の袴すがたでいることが多い。

お社では神主さんよりも緋の袴のお巫女(みこ)さんの印象がつよい。お巫女さんは神職の職階外だから身分は不安定、大きな行事などでの臨時雇いがふつう。白小袖に緋の袴は、もとになった古代服飾では殿上の下着すがただが、いまのひとの眼には清らかに映るのか、アルバイトの募集をすると志望者はけっこういるという。

(大丸 弘)