近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 453
タイトル 老いの姿
解説

老年期のはじまりは、現代では勤め人の定年(停年)という区切りが大きい。わが国では古くから致仕(ちし)という慣習があり、これは宮仕えをする人間が主君に対して退隠の許しを乞うことだから、近代の定年とはすこしちがう。

明治・大正期には、企業では一般的に一定の年齢での退職義務を設定していないようだ。ようやく1920年代以後になって、1925(大正14)年の住友製鋼の55歳停年制、1928(昭和3)年の三菱造船の50歳停年制が早い例として知られている。ほとんどの企業内では本人に任せられていたか、暗黙の不文律があったか、一種の肩叩きが行われたかの、いずれかだったろうから、老年期の区切りの目安にはなりにくい。

法的な基準のひとつとしては、明治民法で戸主の隠居が許されるのは、特別の事情のない場合は60歳以上だった。61歳の本卦がえりはわりあいポピュラーなお祝いなので、もしかするとこれに添ったのかもしれない。70歳の古稀、80歳の傘寿、88歳の米寿、90歳の卒寿も、通過儀礼のはなしならべつだが、とくに若い者の眼から見れば、そのまえもあとも、おなじ爺さん婆さんにすぎないだろう。

家督を譲ってしまった御隠居は店にはもう出ないから、大店であれば中庭をへだてた奥の小座敷の縁端で居眠りをしているか、ブラブラと出歩くことになる。落語の「百年目」では医者の竹庵さんが一日中連れだっている。ずいぶんひまな医者のようだが、じつは医者四分、幇間(ほうかん)六分、といった医者がけっこういたのだ。大家の旦那の腰巾着をして生活の助けにしているような哀れな存在としては、この時代は俳諧の宗匠などもそうだった。

身には被布をまとい、行いは幇間を真似、ブラリ、シャラリ、風流を売物にする人を宗匠という。一句の代作料金五銭、初伝の目録金壱円五〇銭、金を取ることには中々抜け目なし。
(中川愛水『貧禅独語』1900)

隠居には若隠居というものもあるが、ふつうは若くても初老というような年になってから、こんな気楽な境涯に入る。俳諧や茶の湯に趣味があれば、その道の人に似た恰好をすることもある。愛水が描いている宗匠の被布は、前の打ちあわせがふつうの着物のように斜めでなく、胸を塞ぐような構造の一種のはおり着物だ。よく似た構造の衣服に道行があって、被布とおなじように用いられていた。被布や道行は胸元がふさがれていて、風が胸元に入るのを妨げるため、老人に好まれたのかもしれない。しかしけっして外套といいうわけではなく、屋外でも部屋の中でも隔てなく用いられた。外出には頭にトーク(toque)型の宗匠頭巾を被り、寒ければ首に襟巻をするが、当時の写真を見ると、大きな―たぶん舶来のバスタオルをぐるぐる巻いている姿なども見ることができる。もっと冷えれば、今日の懐炉にあたる温石を懐に入れた。「年寄りの温石もあまり温めすぎると、包んだ切れなどに火の移ることがありますから、ご用心なさいまし」という、背中から煙の出たお爺さんの事故を報じた新聞記事がある(→年表〈現況〉1876年1月 「温石の火事」読売新聞 1876/1/8: 2)。

こういった老人が、老人とはいうもののまだ50代、60代であったことに、われわれはいぶかしさを感じる。これはその時代の新聞小説の挿絵に描かれた、多くの老人の姿を見ることで倍加する。じつはこの点に関しては、単に平均寿命のちがいというばかりでなく、べつの理由も考えられる。外国人をはじめその時代の人も、日本人の老化の早さに着目しているからだ。目につきやすいのは、腰の曲がった年寄りの多さだった。

日本人は四十の坂を越えると腰の曲がるひとが多いが、西洋人は腰が曲がらぬ。その訳は、西洋人は若いうちから杖を持つせいだと思います。其の証拠に、按摩にあまり腰曲がりは見受けませぬから。
(→年表〈現況〉1875年10月 「投書―杖を持つと腰が曲がらぬ」読売新聞 1875/10/30: 2)

この投書は一種の珍説に入るだろうが、1874、1875(明治7、8)年という早い時点でも、こういう認識のあったことは知っておいてよい。

腰の曲がるいちばんの理由は、日本女性の「海老腰」と指摘された、一日中の畳の上での前傾姿勢だろう。とりわけ東京地方は、台所仕事も座り流しでなされていた。もちろん、もっと根本的な視点からの問いかけもあった。

日本人は何が故に速やかに老衰するや(……)彼の西洋人の如きは身に学芸を修めて絶えず其の精神に食物を与うるのみならず 又常に少年活発の士と交際して其の元気に感染するが故其の精神の活発なる事日本老人の比にあらず 精神活発なるが故其の身体も亦活発を保ち(……)。
(→年表〈現況〉1885年11月 「社説―日本人は何が故に速やかに老衰するや」郵便報知新聞 1885/11/20: 1)

また1889(明治22)年、衆議院議員の被選挙資格を30歳以上としたおり、西洋と日本の年齢観の差についてのつぎのような国会演説がなされている。

泰西の人民は概ね発達に遅きが故に老衰するも亦遅く、日本の人民は発達に速やかなれば老衰にも亦速やかなり。左ればこそ英仏諸国の国会議員は、多くは四十以上の人物にして、グラッドストーン、ビスマークの如きは、東洋の所謂古稀を超ゆるも猶お矍鑠(かくしゃく)として煩雑なる政務に当たり、毫(ごう)も壮者に譲らずと雖(いえど)も、日本人に至ってはやがて五十にして隠居となり、清茶好香静に幽趣を愛し、殆ど人生の事を忘るる。
(→年表〈現況〉1889年4月 「国会議員の年齢と日本人の年齢観」時事新報 1889/4/3: 2)

これらの資料はどれもまだ明治も早い時期のものだが、日本人の老けやすさへの指摘は、時代が昭和に近づいても変わらない。日本在住のフランス人美容家マリー・ルイズは、美容家としての経験の上から、フランス女性とくらべると日本女性は10年は老けている、若くあるためにはもっと快活な気分と、栄養の必要を感じる、とのべた(→年表〈現況〉1922年11月 「日本の婦人は年をとりすぎる」時事新報 1922/11/15: 7)。またおなじ時期に医師の立場から、50歳にもならぬ日本女性が、ややもすれば皮膚が枯れたように皺を生じ、非常に年とって見える原因を分析した意見もあった(→年表〈現況〉1923年8月 「五十歳にもならぬ日本婦人の早老は」国民新聞 1923/8/23: 5)。

ところで、女性が年齢を重ねるしるしのひとつは、結っている髪が小さくなってゆくことだ。これは髪の毛が少なくなってゆくために自然そうなるのだろうが、挿絵などに描かれている明治時代の女性の髪は、50代にでもなると、おなじ丸髷がまるでひとつかみ、と言ってもいいほど小さくなっているのがふつうだ。白髪はともかく、髪の毛の量自体は、50、60歳くらいでそれほど変わるものではないから、婆さんの髪の表現にはかなりの誇張があると理解しておく必要がある。おそらく、若い女性とおなじような大きさの丸髷を描いていては、新聞挿絵のような粗画では、老人らしさが表現しづらいためだったろう。

夫を喪った女性が髪を切ることがある。「後家の切髪 貞操ブリ」という戯れ歌もあったが(→年表〈現況〉1877年「投書―何々ブリ」読売新聞 1877/12/13: 3)。総髪のようにうしろに撫でつけて、肩のあたりで切りそろえる。切髪の女隠居、などというと一種の威のあるもので、長屋のお上さんなどのすることではない。

こういった女隠居の身につけているのも被布が多かった。というより、被布は来歴はともかく、明治時代にはふつう女の着るものと考えられていた。道行とちがって被布には胸の両側に飾り紐があり、女ものによりふさわしいといえよう。

(大丸 弘)