近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 450
タイトル 労働する人々
解説

ここでは労働を狭く、筋肉労働の意味にとる。

第二次大戦以前のわが国で、もっとも人数の多い労働者は農業労働者であり、農民が労働人口の過半数を占めていた。農林業の有業人口は1872(明治5)年、総人口(3,311万人)の81.4%、1900(明治33)年ではやや減少し、総人口(4,482万人)の66.6%となっている。だから労働衣といえば農夫の野良着を欠かすことはできない。

野良着は見ようによれば単純ともいえるが、統制はもちろん、伝播の機会は小さいから、地域ごとのちがいは大きく多種多様だ。農民衣裳、とくに野良着に関心が深まったのは第二次大戦後のことで、民俗学畑の研究者によって大きな成果がえられた。研究はおもに現地での聴きとり、撮影、資料の採寸等の分析が中心だった。農山村対象の民俗研究では文字資料がとぼしく、まったく存在しない場合も多いため、老人の心細い記憶を聴きとるほかは、半世紀以上の過去にさかのぼることはむずかしい。だからもし明治期の野良着のありさまを知ろうとしても、さいわいに写真でもあれば格別、――それもほとんどは年月の不確かな――たいていは稀に残っていたボロボロの半天、股引を眺めて、まあそんなにちがいはないだろうと推測するしかない。

一方文献の方からの手がかりとしては、1920年代末から1930年代にかけて(大正末~昭和初め)、内務省の指示によって制作、提出された町村史誌がある。政府の意図としては、関東大震災で失われてしまった明治期の皇国地誌に代わるもの、という想いがあったと考えられる。これを仮に1930(昭和5)年町村史誌とよぼう。この時期は1923(大正12)年の郡制廃止のあとの、地方組織改革のさなかだった。行政区画としては廃止されたが、古くからの地域名としての郡の名は残されたので、郡史誌を作ろうといううごきも各地にあった。こういう動きも追い風になり、全国の市町村から県庁を経て内務省に提出されたのが1930年町村史誌だ。不幸にして内務省に提出された文書は、今日その存在が確認されていない。大部分は未提出だったのではないかという説もある。また県側に残されていたはずの写しも、空襲による罹災のためほとんどが失われた。戦後各県、各町村で制作された町村史誌は、たまたま発見された1930年町村史誌の一部を貴重な根本資料としているものが多く、衣生活に関連する項目も同様だ。

農、漁民をふくめて江戸時代以降の労働衣が、原則としては尻切れの、つまり裾の短い筒袖きものに、半天、股引に三尺帯、手拭の頬かぶり、というスタイルだったことはたしかだ。荷揚げ人夫や米屋など重いものを肩に担ぐ仕事では、長い前垂がぜひ必要だ。布地には命しらずというほど丈夫な厚司がよくつかわれた。暑いときは下帯(六尺褌(ふんどし))ひとつ、というのがふつうだった。初期の鉱山労働者は、坑内作業では男女ともにこの恰好だった。

ひと口に筋肉労働と言っても種類は多い。労働衣の近代は、下帯一本か、半天、腹掛、股引の定番的服装から、仕事の内容に応じた、とくに危険度を重視した、目的的配慮へのプロセス、といえる。

たとえば地下足袋の導入は1920年代初め(大正後期)で、炭鉱作業でうけいれられたのが手はじめだったという。1923(大正12)年のこの特許がブリヂストンタイヤの石橋家のいしづえとなる。革靴はすでに幕府の兵士にも採用されたように、外来風俗中もっとも早く受けいれられはしたものの、とりわけ被覆性の大きい男子靴は、日本の高温多湿の風土には不向きといえる。そのため農漁民だけでなく、旅行、登山、釣りなどにはいつまでも草鞋への執着がつづいている。日清戦争(1894、1895)の戦場においてさえ、草鞋の利点が説かれた。しかしもちろん、鉄鉱所の危険作業などでは、早くから厚革の安全靴がつかわれた。

一般にはたらき着としての和服は、袖と裾についての配慮が必要だ。袖については江戸時代でも、都会のごく一部の女性を除けば、ひろい袖や振りのある袂のきものなど着る者はいなかったのだが、裾の開きに関しては、日本人はかなり無頓着だったと言ってよい。野良着の多くも、丈が短いだけのあたりまえのきものだった。

もっとも早い職場のユニフォームのひとつ、1878(明治11)年の紙幣局の職工の夏服として、男工は白の河内木綿の筒袖きものにズボン、女工は白の筒袖きものに、「袴の形をしたもの」と報じられている(→年表〈現況〉1878年6月 「紙幣局の男女職工の夏服」読売新聞 1878/6/9: 1)。「袴の形をしたもの」と書いているのは微妙なところだが、明治14年というこの時代は、女学生の海老茶袴より前だ。

おかしいといえるのは、はるか時代はとぶが、1903(明治36)年、鉄道の駅の出札係にはじめて女性が採用されたとき、その職服を新聞は後にこう伝えている。「彼女たちは黒木綿の職服を着ている。襟から胸までが被布仕立、下は袴風、筒袖で先端にひだをとっている」(→年表〈現況〉1909年9月 松崎天民「東京の女―駅の出札係の制服」朝日新聞 1909/9/16: 5)。ここでは「袴風」などという言い方をしている。女性のはくものについては、かなりの屈折があるようだ。

1910(明治43)年の新聞には、古着屋の店頭での職工の女房の話として、「当年の春は職工一人で二十四五銭の股引を一ヶ月に平均三本買って、汚れた場合には洗濯せずに捨てた程だが、八月以来不景気が酷くなって月一本の割合に減じた」とある(「大晦日の職工」朝日新聞 1910/1/6: 4)。不経済ともいえるが、油汚れのひどいものを、当時の洗濯石鹸での手洗いはむりだったのだろう。鉄工場などの職工では、作業衣は現場での支給品として、通勤衣から着替えるのがふつうになってゆく。その場合も、最初のうちは着替えのための場所さえ用意されていなかったらしい。

砲兵工廠の職工は洋服の作業服を着るが、作業服で通勤するのは体裁が悪いというので、途中の飲食店などで着替える人が多い。昨今の職工の増加のため朝夕の飲食店は市場のように賑わっている。
(「職工の通勤姿」都新聞 1915/9/2: 2)

この時代から工場作業者は、いわゆる菜っ葉服とよばれる薄青色の、折襟、ボタンがけの上下服を着せられることが多くなった。鉄道機関士のこの姿をよく見るが、前庇(ひさし)のある帽子とともに、もとは軍服からのものだろう。

筋肉労働に属しても軽労働の場合であれば、上っ張り式のものを着ることですむ。医師の着る白衣などがその代表的なものだ。1920年代以後、とくに女性労働者は、コートの流行にもいくぶんか影響されて、各種の上っ張りを着せられることが多かった。

現在の工場作業服は、大体において着物の上に着るように作られ、上着は襦袢式、下は袴式になっています。地質は小倉、または天竺木綿が多く用いられています。ある製糸工場では、繭から糸をとる水仕事に、袂の着物に襷がけで僅かにエプロンを掛けた程度で働いています。比較的に改良されたものでも、夏は水色ギンガム冬は紺サージのワンピースまたはツウピースですが、如何にも不格好で働きにくそうです。
(→年表〈現況〉1931年7月 「女工服」【婦人之友】1931/7月)

産業の重工業化が進むにつれ危険作業も多くなる。労働災害についての研究もおこなわれるようになり、1934(昭和9)年3月に警視庁工場課は、安全委員会を作って、目立って多くなってきた工場での災害事故をなくすことにのりだした。そのなかでは、作業衣の欠陥に原因する事故の多いことが指摘されているが、丸髷や島田を結っている女工が、髪を機械に巻き込まれる事故があるため、日本髪を厳禁する(→年表〈現況〉1934年3月 「女工さんの日本まげは災害に鑑み一切厳禁」朝日新聞 1934/3/14: 2)、としているのはこの時代らしい。

とくに建設、土木現場での作業員が、ニッカーズを履くようになったのもこの時代――1930年代(昭和戦前期)だった。膝のゆったりした ニッカーボッカーズ(knickerbockers)はほんらいゴルフや乗馬用ズボンだったから、最初のうちは一般の作業員が気安くはけるようなものではなかった。

股引でも筏師のはく脚にピッタリしたものは特別で、ふつうの労働者は三分ダルミとか五分ダルミとかいって緩いものだが、それでもニッカーズの楽さにはかなわない。土木業界で土方服とか土方仕立てとか言われたものは、詰襟の上着に折返しがあり、下はゆるい半ズボンで裾がボタン留めになっているものらしい。これなら機能の上ではニッカーズに近いと言える。

第二次大戦後は建設現場労働者のなかではニッカーズとタンクズボンに分かれて、不必要にゆるみのあるもの、ゆるみが足首の方に下がっているものなどもある。しかし戦後はストレッチャブル・ファブリックスが非常に発達しているので、形の上で大きなゆるみをつける必要は、実効的にはあまりない。

(大丸 弘)