| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 449 |
| タイトル | 婦人標準服 |
| 解説 | 婦人標準服の論議がさかんになったのは、男子の国民服とおなじ1938(昭和13)年頃だった。婦人標準服が国民服とちがうのは、明治以来ながいこと、いわば不毛の議論をかさねてきた改良服の試みの、最後の事例といえることだ。 ただし婦人標準服運動は、それまでの改良服とちがう観点をふたつもっていた。そのひとつは、近代化のひとつの方向である規格の標準化に沿おうとした、という点。もうひとつは、できれば手もちの和服の改造、再利用をはかったことだ。 一般に、標準という表現が用いられるときは、強制力をもったきめごとではない。多くは、対象の実態が多様で、単純なひとつの枠にははめにくい場合に、ややあいまいで、選択の幅をもつ、標準という枠づけができる。 裁縫書には、衣服を仕立てる際の標準寸法ということばがある。しかしじっさいの裁断は、着る人の身体の大きさに従わなければならない。また流行色というものがある。1924(大正13)年にはじめて、大阪の老舗呉服店等で組織する大呉会は、関西における今年の流行の標準色を発表している(→年表〈事件〉1924年4月 西村冨紗子「単純で鮮明を喜ぶ大阪の流行界」【婦人画報】1924/2月;時事新報 1924/4/26: 7)。発表された標準色にはある拘束力はあるだろうが、女性がブラウスの色を選ぶときのその拘束力のつよさは、まったく人さまざまだろう。 男子国民服がある程度の普及をみた理由のひとつは、なにかにつけ統制の時代、男たちの日常も意識もかなり画一化され、着るものによって自分の美意識を主張する、というような意欲も、平和な時代ほどの力を失っていたためだろう。それにくらべれば女性たちの方は、日々の生活のあり方も、美的な自意識も、まだ柔軟で多様だったにちがいない。男性を対象にしてさえ服装の規格化はむずかしく、むしろむだだという考えかたは最初からあった。デザイナーの伊東茂平は勇敢に、「果たして国民服は必要か」という一文を、国民服論議のさなかにものしている。まして女性たちの着るものの規制が、標準、という方向づけ以上のものでありえないことは、だれにもわかっていた。 婦人標準服が推進された理由のひとつは、大量に死蔵されていると考えられる手持ちのきものの更生、再利用だったともいう。 男子国民服の制定された翌年の1941(昭和16)年3月、厚生省社会局は、「婦人服装改善に関する懇談会」を招集して、婦人国民服制定の第一歩をふみだした。その議論の内容をみると、それはまさに半世紀来いいふるされた、改良服の論議そのままだった。ちがう点といえば、「防空演習その他隣組の集団的活動に不便な長い袖」などという時局に添う文言が加わったこと、そして最後に、物不足にときらしく、「手持ちの衣服を利用して家庭でも仕立てられるもの」が目標とされたこと(→年表〈現況〉1941年3月 「婦人服改善の懇談会」朝日新聞 1941/3/20: 夕2)。 婦人標準服はある意味での話題性が、男子国民服よりも大きかった。婦人服改善の懇談会が招集された翌4月には、早くも東京都下の洋裁家で組織する日本服飾家連盟が、婦人国民服試作品発表会を、モデルを使って開催した素早やさにはおどろかされる。(→年表〈事件〉1941年4月「婦人国民服試作品発表会」朝日新聞 1941/4/24: 7) [朝日新聞]はおなじ月に、〈婦人国民服に対する要望〉、つづけて〈婦人国民服私案〉を9日に亘って連載した(→年表〈現況〉1941年4月 「婦人国民服に対する要望」朝日新聞 1941/4/25: 4~1941/4/30: 4;「婦人国民服私案」朝日新聞 1941/4/25: x~1941/4/30: x)。また直接厚生省に意見や試作品を寄せる人が、6月までで300件に達したという。その後もひきつづき発表会、私案の公表などはにぎやかだった(→年表〈現況〉1941年6月 「婦人標準服に対する大阪の女性の声」朝日新聞 1941/6/21: 5)。 あくる1942(昭和17)年1月に、厚生省の肝煎りで開かれた〈衣生活の簡素化に関する懇談会〉では、ふたたび、家庭に死蔵されている衣類をどんどん更生させることが必要だ、という意見といっしょに、この際きものを新調しない誓いをたてさせ、新しいきものを作ることは恥だという国民運動を起こしてはどうか、という主張もあった(→年表〈事件〉1942年1月 「衣生活簡素化に関する懇談会開催」朝日新聞 1942/1/28: 3;毎日新聞 1942/1/28: 3)。 このような経過のあと、2月3日、厚生省の〈婦人標準服に関する官民懇談会〉は決戦下日本婦人の日常着として、甲型、乙型、活動衣の3種をきめた(→年表〈事件〉1942年2月 「婦人標準服に於ける官民懇談会」国民新聞 1942/2/20: 3)。 政府はこの婦人標準服の普及に本腰を入れ、すべてのマスコミにはたらきかけるほか、業者には標準服の作製、展覧方法を指導、官庁、会社、工場、各種団体で新しく制服を作る場合は標準服にそうように指示、学校の裁縫教授でも教科に加えるよう要望した。 男子国民服の場合もそうだったが、キャンペーンの当初、行政や服飾専門家の熱意ほどには、街中で標準服を見かけることは多くなかったようだ。ひとつには、応用型などを着ていても、男子国民服ほどにはめだたなかった、ということもあったにちがいない。 その年1942年秋の「姿を見せない婦人標準服」という記事は、少し性急すぎるようだが、ある服装専門家によって書かれたもの(→年表〈現況〉1942年9月 小池四郎「巻頭言―姿を見せない婦人標準服」【服装科学】1942/9月)。婦人標準服キャンペーンには、東京を中心になん人かの著名な裁縫指導者や、服装学校関係者が参加協力した。学校によっては、制服として標準服を採用するような熱心さを見せているし、マスコミの報道もかつてのモダンガールなみに、各地に標準服の女性たちがが溢れてでもいるようだ(→年表〈現況〉1943年2月 「全校揃って婦人標準服」朝日新聞 1943/2/28: 2)。しかしその一方で、普及のための努力が、その特定の個人や学校のラインの外へは、あまりひろがらなかった、ということも言えたかもしれない。 2年後の1944(昭和19)年10月になって[東京新聞]が、「なぜ普及しない婦人標準服」という分析をしていることは、ひとつの結論ともいえよう。 (大丸 弘) |