近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 448
タイトル 国民服
解説

国民服令の公布は1940(昭和15)年11月1日(→年表〈事件〉1940年11月 「国民服令公布」【勅令】第725号)。男子のみで、従来の男子礼服、モーニング、フロックコートに代わるものとして甲号を、平服として乙号の二種が定められた。

強制ではなかったし、物資不足の時代にわざわざ新調することへの批判もあったから、普及はゆっくりしていたが、太平洋戦争のはじまったころ(1941年暮れ)には、街中でもけっこう見かけるようになっていた。街で見かけるのは乙号の方で、町会役員とか警防団長、校長先生といった、人前でしゃべる立場の人が着ていた。防空演習で指揮をとる警防団長とか、分団長とかいう立場の人が、背広というわけにはいかなかったから。国民服はみんな新調だったし、軍服にも似ていたので、子どもなどの眼には、晴れがましいもののようにうつった。それも空襲がはじまるまでのことだが。

甲号の方は大臣とか、えらい人の着ているのを新聞の写真で見るだけだった。庶民にとっては、モーニングとかフロックとかいうのとおなじことで、関係はない。

国民服の議論が本格的になってから、制定、公布までは、わずか2年くらいだった。1938(昭和13)年11月に、国民精神中央連盟の、非常時生活様式委員会というグループが、服装に関する委員会を開いた(→年表〈事件〉1938年11月 「服装に関する委員会」朝日新聞 1938/11/21: 5)。

この委員会に集まった人たちをふくめて、この時代の服装専門家――その多くは女性――のなかでは、男子スーツの評判が悪かったようだ。日本の男性が背広の前ボタンをかけないで着る習慣のあることもあって、イザというときにだらしがないとか、ネクタイにお金がかかるとか、いつも糊のきいた真っ白なワイシャツを着せる主婦の労力が大変――当時はワイシャツの洗濯、アイロンかけはふつう主婦の仕事だった――とか。

国民服乙号は詰襟にちかい襟のかたちで、着た感じは、その時代の鉄道や郵便など官庁の現業部門の制服にも、学生服にも似ていたので、違和感はなかった。毎朝ネクタイをあれこれ選んだりするような人間は、この時代の日本人の〈男〉にはそれほど多くなかった。着なれてしまうと、なにをするにも、子どもづれで遊びに行くにも、寒いときの畑仕事にも、だいぶくたびれてきた国民服は役にたった。

国民服式の服装を定めようという声は、明治時代からある。たとえば自由民権派の政客・野口勝一は、「国民の正服を定めよ」という意見を1897(明治30)年2月10日発行の【風俗画報】に発表している。野口のいう正服とは、1940(昭和15)年制定の国民服でいえば甲号になる。野口の時代、フォーマルウエア(formal wear)にあたるものが、大礼服、燕尾服、フロックコート、モーニングコート、タキシード、和風の羽織袴、それに野口は上下(かみしも)袴まで加えて、こんなものの選択にあたまを悩ますことの愚を説いている。

実際には、フォーマルウエアの規格は、これだけの服種の選択にとどまるものではない。

タイの色からシャツの生地、ズボン、ベルト、靴、靴下にいたるまで、細かな注意と心遣いが必要だ。世のなかにはそういう心遣いとこだわりを、華やぎと感じているレディーもいれば、プロトコールの一行一句をそらんじて、ただひたすら人前で恥をかかない努力をすることに、うんざりしている紳士もいる。国民服の甲号は、フォーマルウエアのもっている華やぎの側面にはさしあたり意をもちいず、礼にそむくことのない心安らかな標準を定めた、という意味では画期的だったといってよい。

江戸時代の服制にはさまざまな制限や規格はあったが、身分構造が単純で、ながいあいだ大きな変動もなかったために、その制限も規格もわりあい単純だった。

開化の時代になったとき、服装の制度としては、外来の規格を基本として、ある期間、それに従来の日本の風習を融和させる、という原則ができたと考えてよい。日本人のいじらしい学習意欲のおかげもあって、この原則は明治、大正、昭和と着実に守られてきた。それが昭和という時代になったころ――1930年代初めごろから、ひとつの抵抗が生まれてくる。それまでのひたむきな欧米追随を反省して、日本のよさを見直そうという動きだ。

国民服を推進した人々のなかには、この点に関してのつよい意欲をもっているひとも少なくなかったろう。宮内技師という肩書をもっていた推進者のひとりは、「服装の乱れは心の乱れ」という文章の冒頭でこう言っている。

この国民服は少しの加工で軍服ともなるものでありますから、国民服を持って居ると云うことは、軍服を常に用意して居るということになるのであります。又外国其の儘の品々の洋服が一蹴されて、日本独特の国民服を国民一般が着ることは大和魂を呼び起こし、全日本国民が一致団結、一塊と成ってこの非常時局を処理して行くこととなり、国民精神を益々昂めて行く訳となるのであります。

つづけて、国民服甲号中衣についてこう言っている。

この中衣の形は全く日本独特の服装を基礎として出来たもので、即ち日本精神の最も発揚された鎌倉時代に新型の服装として、武士階級により考え拵えられた直垂を基礎として出来たのでありまして、洵(まこと)に日本服装として申し分のない合理的の服であります。
(中田虎一「服装の乱れは心の乱れ」【生活】(生活館) 1941/1月)

はなしが単純でないのは、欧米から学んだとはいえ、新しい文明は概して合理的で、日々の生活にとってはかけがえのない、実用性をもつものがほとんどだったためだ。欧米風敵視の矢面に立たされた代表はパーマネントだった。洋服についてはさすがに、羽織袴で通勤しろと主張する人はいなかったが、洋服とは西洋服に非ずして両洋服の略である、などと苦しいこじつけを言う人もあった。こういう背景のなかで智恵をしぼった男女の国民服には、すこしでも洋服的な特色を薄めて、日本人に着なれた、日本的特色を生かそうという苦心が点綴されている。残念ながら男子国民服の場合、その苦心は、上着ではほとんど実現していない。

(大丸 弘)