近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 447
タイトル 改良服/服装改良
解説

男性の洋服の受けいれは、すでに幕末に、洋風の武器武装、兵士の調練方法の一部として、積極的にはじまっていた。維新後も、国の構造や機能を文明国なみにするために、欧米風の官制や儀礼、また都市インフラを受けいれる一部として、鉄と石づくりの橋や、瓦斯燈や、馬車とおなじように、官員たちの洋風の礼服、制服、軍服が制度化され、それは短期間に官員以外のビジネスマン、現業従業者にも波及していった。

男性が洋服を着ることになんの疑問も抵抗もなかったのに対し、文明化の、さしあたっての必要の枠の外に置かれていた女性については、着なれた和服を洋服にしなければならない理由もなかった。鹿鳴館の夜会の高貴な女性たちのドレスは、男性の洋装とかわらない、「制度」としての装いだった(→年表〈事件〉1884年11月 「婦人の通常礼服」【宮内省無達】無号 1884/11/15)。

一方、鹿鳴館時代にスタートをきった女性の束髪は、憲法発布へむかっての欧化ブームの後退から約10年のあいだ低迷したあと、日清戦争(1894、1895)あたりで人気を回復してからは、順調な普及の一途をたどり、1920年代(ほぼ大正後期・昭和初期) には、新しい洋髪の人気といっしょになって、日本髪を急速に時代おくれのものにしてしまった。

しかしきものの方は、第二次大戦が深みにはまってゆく時代でも、女性の衣服の基本になっていた。職業をもつ女性の一部をのぞけば、どんなときにも洋装、というひとはまれで、大部分の大人の女性にとって洋服は、夏の簡単服以上のものではなかった。

日本髪はその大きさも大きさだが、幕末の都会人の一種の趣味から、きわめて技巧的に多様化してしまった。それをきれいにもたせておくのはかなり手がかかる。生活的にはずいぶん厄介なものを、頭にのせていることになっていた。新しい時代の生活者が日本髪をすてたのには、じゅうぶんの理由があったのだ。しかし和装の着物の方にはとくにそんな理由がなかった。

明治期の和服改良論者が口をそろえていった着物の欠点は、前がうち合わせになっているために、風に吹かれたときなど裾が乱れやすい、ということだった。そういう指摘をするご婦人は教育者であるとか、高い身分の教養ある老婦人とかだった。しかし江戸時代のうち合わせきものの長い経験のなかで、女の裾のひるがえるのは、浮世絵のよい画題になってさえいる。

日常生活上の着物の難点は、裾よりもあの幅広の帯の締めようだろう。しかしこれも帯を締めることになれているひとにとっては、とくに苦しいとも、さほど面倒とも意識されていなかったようだ。女たちはそれで働いてきたし、吹き降りの日も、汚れ仕事をするときも、また旅にでたとき、それぞれに対処する智恵と経験をもっていた。生まれたときから、ずっときものですごしてきた女たちにとっては、そのきものを捨てて、なにかべつの、新規なものを身につけなければならない理由はなかった。大部分の生活する女性たちは、衣服の改良とか、改良服などということばを耳にする機会もなかったろうが、たとえ耳にしても理解はできなかったろう。

とはいえ近代化の方向にむかう環境は、日本人の衣生活を変えずにはおかなかった。最初の、そして衣生活への最大の影響だったのは、毛織物の使用だった。外套や女性コート、スーツ地として使用された羅紗、ひろく着物や袴地につかわれたセル、あたたかい肌着としてのネル、そして大衆的に愛好されたメリンスなど。

おそらく1890年代(ほぼ明治20年代)に、家のなかでの日常的な曳裾の習慣が消えた。時代はとぶが、女性が和装の下にも下ばき類を用いるようになるのは、1920年代後半(昭和初頭)からと考えられる。

他方、女性の生活の外へのひろがりは、従来の羽織や被布のほかに、洋服仕立てのコートを誕生させ、定着させた。開化後の和装にあたらしく加わった、洋服系のアイテムとして、男性の二重外套とならぶめだった存在だ。訪問着という服種の生まれたのも、おなじ女性の生活環境の変化による。

晴着として襲(かさね)の習慣がだんだんと衰え、日常的にも綿入れを着ることが少なくなって、毛織物、毛糸編み衣服で保温をはかるようになった。数えればまだまだあろうが、これらはとくにだれが発明した、というのではなく、都市インフラの変化、ものと情報の流通のひろがり、一般市民の生活向上等々がもたらした、衣生活の改良、ないし改善にあたるもの。

1920(大正9)年に発足した生活改善同盟会は、当然、最初から服装の改善を活動の主要目標のひとつに据えていた。同会の発表した〈服装改善の方針〉はつぎのように要約できる。

(1)男子服は衣、袴の二部式にする。過渡期においては、少なくとも職業服は衣袴式にし、在来の和服は自宅用にする。
(2)婦人服は漸次衣、袴の二部式に改める。過渡期においては、日常服は袂を短くし、帯幅は狭くし、襟下は綴じ、なるべく袴を用いて、身丈を短くし、かつ洋式下着を用いる。
(3)衣服の裁ち方縫い方及び着方等は旧慣に拘泥することなく一層自由ならしめる。
(4)綿入及び重ね物を廃し、襦袢及び胴着等にて調節する。
(5)反物は大幅長尺の制に改める。

男女とも短い上着と袴、という組み合わせは、明治以来の服装改良の変わらない目標だった。女学生や電話交換手、一部の女工員などのあの海老茶袴の制服もその線上だったし、生まれては消えたたくさんの改良服の案も、ほぼこの線から外れていない。

しかし今日の私たちにとってふしぎなのは、それならなぜ、袴をズボンとして、洋服式にしようとしなかったのか、という点だ。改善同盟が最終的に、洋装を本位にすべきである、という結論に到達したのは、関東大震災やモダンガールの一時期を経験した1935(昭和10)年のことだった。

しかし羽仁もと子は1938(昭和13)年に【婦人之友】誌上で、「改良服に見切りをつけよ」(→年表〈現況〉1938年4月 羽仁もと子「わが国中流の服装に対する提議」【婦人之友】1938/4月)と述べている。

その翌年の1939(昭和14)年に【婦人之友】に載った画家・石井柏亭の文章も、いわゆる改良服なるものへの、ごく常識的な視線からの意見を代表しているようだ。

私は未だ嘗て美術眼から観て、これはよいと思った改良服を見たことがないばかりか、どれを見ても醜悪なものばかりだと思っています。要するに折衷服は徹底的なものではありません。微温湯(ぬるまゆ)のようなものです。私たちの生活を徹底的にするのには、服装も徹底的のものにしなければなりません。
(石井柏亭「画家の観た日本婦人と洋服」【婦人之友】1939/4月)

こうして1935(昭和10)年以後、戦災で女性たちがなにもかも焼いてしまうまでの約10年、成熟した着物と、まだ若い洋装とが、きそいあって銀座の舗道を彩ったのだった。

(大丸 弘)