近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 440
タイトル 家紋
解説

和服の正装には家紋がつく。単に紋とだけいうときは家紋をさし、文様の意味ではない。だからわざわざ家紋といえばやや仰々しくきこえる。

紋付だけでなく、和服自体がすでにあまり用いられなくなっていた1933(昭和8)年、[都新聞]の家庭欄に、紋についてのくわしい解説が掲載された。戦後から現代に通じる内容なので、以下ほぼそれによって、近代後半の家紋を紹介する。

紋の大きさにも多少の流行があり、この時期だと女ものが丸文で6分から6分5厘、男もので1寸(3センチ)、あまり大きいのは古めかしい。

紋の表現にはつぎのような方法がある。切付紋―張りつける紋、加賀紋―紋だけを彩る、縫紋―刺繍による、鹿の子紋―模様を鹿の子で染めだす、染抜き紋―染めだした紋。

紋を入れるには染抜きと、縫い、つまり刺繍が多い。石持(こくもち)というのは出来合の羽織などで、紋の部分を白く抜いておき、注文を受けてそこへ家紋を入れるもの。紋を染めるのは紋章上絵師という専門の職人で、そのなかでも手描き職人はまたべつになる。

紋を入れる場所は一つ紋なら背中(背紋)、三つ紋なら背中と両胸(前紋)、五つ紋ならそれに両袖(袖紋)が加わる。一つ紋は略式だが、正式の場合でももうこの時代、五つ紋は堅すぎる、と考える人がいた。背紋胸紋の位置はどこから何寸ということではなく、その人の身長を考えてほどよいところに。

つける紋はもちろん、その家その家できまっている家紋だが、すこし遊び心が許されるときは、替紋というものもある。都新聞では「定紋は大切には違いないが、昔気質を守っていやいやつけるのも時節柄感心したものでないため、是等は別に適当の替紋を設けた方がよいと思います」と書いている。家紋がうまれた鎌倉室町時代は、発生期だから当然ともいえるが、いろいろな替紋を適宜につかっていたらしく、むしろ近代の方が厳格主義になっている。

江戸時代のことだが家によっては殿様から拝領の御紋付羽織などというものがあって、晴の折には着用が許された。『福翁自伝』をみると、まだ両刀をさしていた時代に、諭吉は拝領の御紋服を江戸で一両三分で売り払って、「その拝領した年月を系図にまでしたためて家の名誉にする、というくらいのものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない、それよりか金の方がいい、一両三分あれば昨日見たあの原書も買われる、原書を買わなければ酒を飲む(……)」(「王政維新」『福翁自伝』1899)と書いている。

芸人社会では、定紋ではあまり堅苦しいというときには、粋な一つ蔦などをよく使う。また、子どもの祝い着には松竹梅とか福禄寿とかの組紋にしたり、むかしは花魁の紋と自分の紋を左右の胸につける比翼紋などもあった。分家して紋を新しくすることは多いが、たいていは本家の紋をいくぶんアレンジしたものにする。五枚笹を四枚笹にするとか。

1908(明治41)年、【風俗画報】7~9月号の誌上で、寺井紫山なる人物と、画報編集長の山下重民との間で、紋付衣服廃止論をめぐる論争があった。寺井紫山という人のことはこの論争以外なにもわかっていない。寺井は9月号の誌上で、「紋附は封建割拠時代の遺俗に基づき民間の礼服として今尚其余命を保ち居るものなり、而も此奇異無用の遺風あるが為に全国四千万の人衆が年々無益に費消する金額それ幾何ぞや(……)」と言っている。対する画報の山下重民はかなり保守的な思想の持ち主であることが、今日ではわかっている。ただしふたりの論争では、寺井が紋付は封建割拠時代の遺風とはいいながら、もっとも問題のある家制度については触れずに、絹ものと木綿ものの経済論で過熱している。

日本の家紋とよく似ているのはヨーロッパのヘラルドリー(heraldry)だ。ただ、ヨーロッパの紋章はとりわけ戦場での武勲を示そうとしているらしく、きわめて個人的で、また、盾=クレスト(crest)や、武装=コート・オブ・アームズ(coat of arms)と密着して発展している。そのため絵柄が複雑で、日本の家紋のような可愛らしいロゴマークのようなものではない。

現代は日本のどんな小さな市でもロゴマークをもっていて、下水溝の蓋にもついていることがある。家紋はいってみれば、市町村のロゴマークのようなもので、たまたまその市町村に居住する人は、好き嫌いにかかわらず、もらった住民票にはそのロゴマークが透かし印刷されている。住民同士にはなんの血のつながりもないが。

もっとも家系というものも血縁関係はどうでもいいのだ。たまたま日本の天皇家は、男系の血のつながりを受け継いできているめずらしい血系の例だ。しかしふつうの日本人の場合、血のつながりのない養子縁組をさかんにしてきているため、家の祖先といっても、それは家の苗字の祖先にすぎない。とくに近世は、家が社会の存立基盤だったから、武士の場合は家名には家禄という固定収入が付随していた。大町人も家産と暖簾の信用を維持するためには、道楽息子を勘当して、有能な番頭を後継の養子にするようなことは、めずらしくなかった。

区役所の届けにも「氏/名」と有るが、正確に言えば「苗字/名」でなければならない。1875(明治8)年に、それまでは部落の名と名前だけで認知されていた農民にも、屋号と名前しかもたなかった町人にも、苗字と名をもつことが義務づけられた。これが〈苗字必称令〉だ。ご先祖の墓とか、家業だけをだいじに守ってきた一般庶民にも、武士とおなじように家名というものが生じた。年中半天と股引だけの八っつぁん熊さんも、大家さんのつけてくれた苗字には、きまった紋というのがあることを知った。

四民平等になったが、それまでの平民が士族に列せられたわけではない。家名などというものは、町人や職人、農民が、むりにもたされた、付加価値をもたない苗字というものに、士族なみの誇りをもてと強要されたものだ。

1903(明治36)年9月10日の[読売新聞]に、さるところで、黒地の洋服の背中に定紋をつけた人を見かけた、という投書があった。またその2年後、1905(明治38)年11月号の三越の【時好】に、新橋停車場で紋付のフロックコートを見たという記事がある。この筆者は続けて、ネクタイに家紋をつけることを提案している。おなじころ、東京芝公園紅葉館で、第1回の同紋者会というものが開催された(→年表〈事件〉1913年1月 「第1回同紋者会開催」読売新聞 1913/1/9: 3)。誇りとかこだわりとかは、どんな些細なことにも生じるものらしい。

もっとも世の中には無知というか、無頓着な人もいる。おなじ[読売新聞]の1895(明治28)年10月はこんな話を伝えている。牛込寺町通りのある呉服屋で、値十円の黒魚子の羽織を新調した紳士があり、主人が石持の御紋はと尋ねると、男は臆面もなく、近頃紋は何が流行るかと訊くので、驚いた主人が、紋にはべつに流行とてござりませぬが、旦那様の御定紋はというと、合点のいかぬ顔でそんなものはない、と答えたという。髭を蓄えた、三十近い軍人風の、立派な身なりの男、ということだが。

(大丸 弘)