近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 439
タイトル 男性羽織袴
解説

男性の和服は幕末と、それから半世紀後の1930年代、昭和のはじめも、スタイルの基本は変わっていない。維新前後の江戸・東京の、暮らしぶりのいい商人が、モダンガールと交錯して銀座の町を歩いたとしても、人の眼に立つのは丁髷だけだったろう。

近代日本のサラリーマン社会を、お城勤めの侍たちとの類似によって、社会心理の面から侍化社会――サムライゼイション社会などというひとがある。身装――身構え・身のこなしと服装――についていえば、近代の男性和服はサムライゼイションの骨組みと、町人風の肉づけの混じりあいだったといえる。

維新によって武士たちの失ったもののなかで、いちばんはっきりしているのは腰の両刀と、裃(かみしも=上下)だ。裃はすでに維新以前に、万事簡略化の趣意によって廃され、従来は裃であった場合も羽織袴に改められていた。ほんらい裃は武士だけの占有物ではない。町人であっても、婚礼や祭の衣裳では裃の着用を許されていた。明治の高名な女性教育者のなかには、男のいちばん立派なすがたは裃姿です、と言いきっている人もある。婚礼で新郎が裃を着ることは明治中頃まではめずらしいことではなかったし、祇園祭などの祭礼行粧では、今日でも、一文字の菅笠に麻裃の人々が見られる。

幕政の頃には、衣服を着用するに、自ずから規定ありて、通常男子は、礼式に熨斗目(のしめ)麻上下(かみしも)、次に袱紗小袖麻上下、(ただし)身分によりては熨斗目を許されず。次に袴羽織(……)男女とも五所紋は、儀式の席に用いられ、常には三所紋、極略には一所紋にて、最も略儀の時には代紋(かえもん)を用う。
(笑昨迂夫「流行についての随感随筆」【流行(流行社)】1900/3月)

これは幕末の武士の礼装をかんたんに述べたもので、これに対して1895(明治28)年に刊行され、1903(明治36)年に再版になった『衣服と流行』は、明治後期の男子礼装を、つぎのように紹介している。もっとも高尚なのは黒羽二重三つ紋の上着に、鼠羽二重の下着二枚という三枚襲(かさね)、黒五つ紋羽二重の羽織に、縞の練仙台平の袴をはけば、洋服でいえば燕尾服にあたる、小笠原流の大礼服、と。

男の礼服には縮緬のようなシボのあるものは避ける。一般に男子の礼服はその絹物と木綿物とをとわず、無地ものがふつうだが、縞ならば微塵、万筋、刷毛目といった、縞のあまりめだたないものにする。前代は時宜に応じてもちいられた熨斗目模様はまったく廃れて、子どもの七五三の祝い着のようになってしまった。

和装では家紋に注意をはらわなければならないが、とくに礼装ではそうだ。その大きさには流行もあり、ときと場合による扱いのちがいもある。相手の家紋を心得ることは礼儀のひとつでもあった(→参考ノート No.440〈家紋〉)。かんたんに羽織袴というが、ほとんどの場合、それは紋付羽織袴を省略した言いかたであることを、知っておく必要がある。

袴は地質としては仙台平を最上とし、柄は縦縞にきまっている。仙台平はこの地方で産する硬めの精好(せいごう)織物。その硬さが袴むきで、袴といえば仙台平以外にないようだが、なになに平という袴用の生地は各地にあった。平、というのは平袴の意味で袴地を意味する。落語の「夢金」に、娘をかどわかした貧乏浪人のひどいみなりを、「嘉平次平の、ヒダのわからなくなった袴をはいて」と描写している。袴は襞(折り目)がピンとしていることが命。明治時代でも安ものの袴といえば、八王子辺りで織られた嘉平次平が多かった。

かたちは襠高(まちだか)の馬乗袴の系統。江戸時代は平袴というごく襠の低い袴がふつうだった。この平袴は祭礼の行粧者や、舞袴におもかげが残っている。襠高、馬乗袴にも種類がいろいろあり、名称も人によっていくぶん違うようだ。女学校の裁縫で袴までを縫わせた時代があり、そういう時代は父親のはく袴と、学校で教わった流儀とではヒダのつきかたが違う―といったこともあったらしい。1920(大正9)年頃の男児の通学用には襠高袴、というきまりがあったようだ(『実用裁縫秘訣』1921)。

もはや裃の時代でないことは、どんなに頭の古い人にも認識されていたから、五つ紋の羽織袴は士族にとっても平民にとっても、所持しているいちばんの礼装だった。にもかかわらず、羽織袴は、西洋風にランクづけられた新しい服制では、ランク外としてしばしば拒否された。

陸海軍に西洋風の軍服が制定された当初、従来どおり羽織袴で出勤する者があるとして、その不都合を指摘されたりした。軍服は官給だったからこれはTPOをまちがえたのだろうが、各省の役人の礼装の方はみな自弁だったから、薄給の下級官吏にはばかにならない負担になった。そのため判任官以下の者は当初、羽織袴の代用も許されている。

紋付羽織袴は『衣服と流行』では燕尾服を着する場合と同様(P141)、これは筆者の認識不足だろう。1880年代から1900年代(ほぼ明治10年代~明治末)の常識でいえば、羽織袴はだいたいフロックコートなみ、と考えるべきだ。たとえば1881(明治14)年10月の第1回絵画共進会の開場式に、関係者はフロックコート着用、ただし羽織袴の代用苦しからず、とある(→年表〈事件〉1882年10月 「第1回絵画共進会の入場式」東京日日新聞 1882/9/29: 2)。すこし時代が下がって、1903(明治38)年に大阪で催された第5回内国勧業博覧会開会式に、有位有爵者は大礼服、それ以外の者は燕尾服、ただし羽織袴での参列を認めずとされている(→年表〈事件〉1903年3月 『日本洋服沿革史』)。

1880年代(ほぼ明治10年代)という、世が洋服化の風になびいていたとき、あるかなり辺鄙な地方の小学校教員が、これまでは羽織袴であったものを、これからは洋服にしようという打ち合わせをした、との新聞記事がある。(→年表〈事件〉1886年5月 「教員洋服」東京日日新聞 1886/5/19: 5)。洋服化の状況はべつとしても、この時代の学校教員の多くが、平生も羽織袴のキチンとした恰好でいたことが理解される。しかしまた羽織袴以上の礼装も存在しなかった

そのため紋付羽織袴を、燕尾服にも代わる日本人の正礼装として認めよという提案が、いろいろな方面からなされている。

たとえば1900(明治33)年に、[朝日新聞]は正月3日の社説で、通常礼服としての羽織袴の採用を提案している。(→年表〈現況〉1900年1月 「通常礼服としての羽織袴の採用」朝日新聞 1900/1/3: 1)。燕尾服等の西洋礼服は日本人の体格には不むき、というのが、そのおもな理由だった。1915(大正4)年、大正天皇即位の地方での饗餞の際、せっかくお招きを受けながら、通常礼服である燕尾服の所持がないため、多くの高官、名士が辞退せざるをえなかった。宮城県の場合は、県会議員中燕尾服をもっていたのは一人だけだったそうだ。このあと首相の大隈重信は、わが国には古来、紋服というりっぱな礼服があるのだから、せめて地方の賜宴には、紋付羽織袴の陪席を認めるべきであると発言した。

これを受けたのかどうか、つぎの昭和天皇即位の地方饗餞出席者の服装は、ほんらい男女とも正式の礼服が必要なのだが、礼服の用意がないため折角の光栄に浴すことができなけれが御趣旨にも背く、というので、男子はモーニング、または紋服紋付羽織袴、ただし縫紋は不可、という大礼使からの通牒が発せられた。縫紋には遊びがあるためだ。紋付羽織袴がようやく昇格したことになる。

もっとも、目をもっと下のほうにむければ、紋付羽織袴などとは縁のない草の根の庶民も少なくない。裁判所での傍聴人の服装について、当初は、羽織袴でなくては入場を許さないという厳重な規則があった。これについて、それでは人民にとりて不便少なからざるにつき、半天なりと前垂なりと傍聴人の勝手に任す、という改正が、1889(明治22)年に発せられている。(→年表〈事件〉1889年4月 「各裁判所での傍聴人の服装について」朝日新聞 1889/4/28: 1)。

(大丸 弘)