| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 438 |
| タイトル | 襦袢/長襦袢 |
| 解説 | 和装の肌着を襦袢と呼んだ。和装のアンダーウエアの区別、また呼び名については、土地や時代によってのちがいが大きい。もちろん季節によってもちがう。明治の末のひとつの標準ということで、『衣服と流行』(1895~1901)、『衣服の調整(家庭百科全書 第27篇)』(1910)によると以下のようになる。『東京風俗志』(1899~1902)はなぜか、「襯衣襦袢に就きては特に述べず」と冷たい。 かりに二枚襲のきものであると、上着、下着と重ねた下に(内側に)まず長襦袢を着る。衣服のうちではこれがもっとも派手なもの。その下に(内側に)半襦袢を着る。単に襦袢ということもある。たいてい裏なしで色は好みによるが、袖だけは袖口から見えるので、若い人は友禅などの派手な色をつかう。その下に(内側に)、肌に接して着るのが肌着、あるいは肌襦袢とか下襦袢といい、たいていは洗濯のきく綿で、裏も袖もない要するに汗とりだ。だから夏のほかは肌襦袢を用いず、半襦袢が肌着になることもあるだろう。 襦袢は単衣にきまっている、と書いている裁縫書もあるが、じつは袷も綿入れもある。肌にじかに接するものに綿を入れたり、けっこう柄物があったりするのは、衣の感覚の前近代性とでもいうことになるのだろうか。 細部にはちょっとした工夫はあるが、襦袢は和服のいちばん単純なかたちで、大人も子どもも、男ものも女ものも恰好に区別はなかった。丈は腰まで、ただ袖だけは広袖と筒袖があり、裄(ゆき=肩から袖口までの長さ)もいろいろで、袖無しもあった。女性の襦袢だけは袖口にレースをつけるデザインがおそらく1910年代(ほぼ大正前半期)からはじまり、そののち現在に至るまで続いている。 庶民の世界では、アンダーウエアが夏季にはそのままでふだん着になるのはめずらしいことではない。そこそこの生活をしている人たちでも、夏の暑いさかりには、女は家のなかでは上は半袖か袖なしの襦袢一枚、下は白い腰巻ひとつ、というのがむしろ普通だったろう。裏長屋ではその襦袢さえない連中があったらしい。1930年代(昭和5年~)になって簡易洋装が普及しだしてからは、下がスカートになり、それから上も前割れのブラウスのような、とにかくボタンがけのものが広がった。これなら電車にものれる。 男性は、ふんどしひとつで夕食の膳につくひともめずらしくなかったが、たいていのお父さんは、ステテコに胸ひもつきの襦袢、そして30年代以後になると、それがボタンつきの縮みのシャツに代わる。その時代たいていの主婦は、夫や子どものその程度の下着は手づくりできた。だから下着類のデザインはさまざまだったろう。その能力は戦時中の物不足の時代に入ったとき、どんなに役に立ったことか。前だてボタンがけのシャツは商品化すると面二シャツとよび、冬のラクダとともに愛好された。その愛好者には1930、1940年代(昭和戦前期)の手づくりシャツの体験者が多かったろう。 襦袢の上には長襦袢を着、普通、きものと呼んでいる長着はその上に重ねられる。長襦袢は外からは、襟にかけるべつぎれの半襟が見えるだけだが、きものの種類のなかではもっとも派手な柄物だ。 長襦袢は下に着るのであるから派手であり、艶麗なる情趣に富んだものでなくばならぬ。依って今年流行の魁をなさんとして居る浮世絵趣味の模様などは、派手なる意味からしても、花やかなる情趣からしても、長襦袢として最も好適せるものである。 1930年代の半ば以後、一般に和服の柄が派手になり、大きな模様づけが好まれるようになった。その時分だれの口からも出たのは、きものと長襦袢の区別がつかなくなった、というセリフだった。 この間、あるデパートの春着の陳列を見ましたが、その派手なことはまるで長襦袢の陳列を見るような気がするほどでした。 この頃の若い人の和服は、まったく長襦袢をそのまま着て歩いているのかと思われる位、派手になっているようです(……)。 長襦袢を派手というが、長襦袢の派手さがきものや羽織とちがうのは、腰巻(蹴出しともいう)同様、赤みがつよい、ということだ。だから「燃えたつような緋縮緬の長襦袢」というきまり文句があることになる。緋縮緬の無地というのは長襦袢や蹴出しではふつうだが、もしそんなきものを上に着れば気がふれたと思われる。緋縮緬のはでというのは、男の興奮を誘うような刺激が目的だ。 だから花魁や芸者が客と寝るときは、緋縮緬でなくても、客の気持ちを誘うような長襦袢が寝巻になる。寝るときもお座敷でも、芸者が長襦袢の下に、まさかもうひとつ肌襦袢を着ることはない。そのため売れる芸者の長襦袢は、また上のきものにまで、しっかりと汗染みが残ってしまうことがある。お座敷は彼女たちにとってかなりの肉体労働なのだ。 家庭の奥さんが長襦袢を寝巻代わりにすることはふつうはないだろうが、戦後首相になった某政治家は変わった好みの人で、うそか本当か、奥さんに毎晩ちがう長襦袢を着せたという伝説がある。 また、芸者の着た古い長襦袢を布団かわにする、というけち臭いような花街の習慣があって、それにくるまって寝るくらい気持ちのいいことはなかった、と述懐する、あたまの薄くなった道楽者もあった。 絵羽仕立てという贅沢な技巧があって、大きな連続模様を背中と袖とに切れ目なくあらわすため、仮仕立てしたものにあらかじめ下絵を描いて、それからまた反物に戻して染める、という手数をかけた。1902(明治35)年夏の三井呉服店の商品案内に、「長襦袢 伊達向きの部でございますと、エバに染めてございますのがあります、エバと申しますると、仕立てたようにキチンと致しまして、模様をつけたもの(……)」と説明している。なんのことかわからない説明だが、とにかくエバというものが、お得意様にはまだよく知られていなかったことは推測される。そのころ絵羽仕立ては、長襦袢のほかにはゆかたや、羽織にほどこされていた。 おなじころ【文芸倶楽部】で後藤宙花が、大模様、すなわち伊達模様が昨今花柳社会に流行してきたのは、長襦袢を必要とする芸者が多いためか、と言い、長襦袢を芸者が営業の道具とするようになったのは、ここ五、六年来(1895~)のこと、と花街の風儀の低下を嘆いている。 長襦袢はもちろん男も着る。その男の長襦袢についてこんな見方がある。 男の長襦袢、もともと之は、芝居で言うつっころばし(二枚目の優男)の専用品である。私は大正三四(1914、1915)年まで頑張り通していたが、妻女の懇請もだしがたく、その後着用。同年配の文壇人で私の知る限り、一番さきに着だしたのは、谷崎潤一郎君。特に羽二重の肌ざわりを珍重された由、当時、吉井勇君より伝聞。今日に至るもなお敢えて着ざるは志賀直哉君。武者小路実篤君だって着ているのに。 男の長襦袢がそんなに色っぽいものかどうかは疑問だが、見栄として着る長襦袢のあったのはたしかだ。料亭で芸者遊びをするとき、お客はまずひと風呂浴びるという習慣が戦前にはあった。ぬいだきものはもちろん女中がたたんでおいてくれる。たたみながら着ているものや、財布の重みで客の値踏みをしたという。遊びなれた男が長襦袢に凝るのは、そんなつまらない見栄のためもあったろう。 それとまた、男はなにかというときものの裾を捲りあげたり、片肌をぬいだりする習慣があった。祭礼の山車行列に奉仕する男はみんなそうして、派手な長襦袢をみせている。上野の花見でも宴会のお座敷でも、自慢の長襦袢でひと踊りする機会を待っている男は、けっこういたようだ。ただし落語の「錦の褌」のなかでは、職人が縮緬の長襦袢は、にやけていていけねえ、というせりふがある。 「百年目」では大きな商家の一番番頭が、隠れ遊びの花見に、ふだんのお仕着せきものを、出がけにこっそり着替えている。 目の詰んだけっこうな天竺へ下襟の掛かっている下襦袢、その上へ着る長襦袢、これは京都へ別誂えした、鼠へちょっと藤色がかっております地へ、大津絵が染め出してあろうという自慢のもの、結城縮みの着物と羽織に綴れの帯、香取屋の雪駄、五分も透かない、どこから見ても大家の旦那という拵え(……)。 船から土手に上がって、芸者たちがサア肌をおぬなさいよと勧めるのを、いやだいやだとは云うものの、ごじぶんも自慢の長襦袢を着ているから、まんざら見せたくない、ということもない(……)。 といった情景が、六代目圓生や、桂米朝の描写によって手にとるようだ。 (大丸 弘) |