近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 435
タイトル 女性の袴
解説

女性の袴は王朝時代からのもので、その服制は宮中の女官や、神社の巫女の緋の袴に残っていた。下田歌子が華族女学校の生徒に袴をはかせたときは、学校が赤坂御所の敷地内にあって、御所の女官はみな袴をはいているので、それに倣った、と下田はのちに回想している(東京日日新聞 1902/1/5: 6)。

ただし明治初年の風俗混乱期には、断髪令が女性も対象になるものと早合点して、髪を短く剪った女性が少なからずいた、というような状況だったから、男とおなじような襠(まち)の高い袴をはき、腕捲りした脇に書物を抱えて、声高に男とも議論する、というような女性が現れていた。これは女性が袴をはく、というより、あえて男装をしているのに近かった。こんな状況も影響してか、1880年代(ほぼ明治10年代)までは、女性の袴に対しては逆風が吹いていたといってよい。

近来笑うべき一事あり、女子にして男子の袴を穿(うが)つ是なり、支那の婦女幼より両足を緊紮(きんさつ)して馬蹄の如くならしむるの陋習(ろうしゅう)を嗤いながら、今日我が邦にても婦女子にして袴を着し昂然として毫も恥ずる意なし、甚だしきかな奇異の風体、実に国辱とも云うべし。
(→年表〈現況〉1874年1月 「投書―ひとつの意見」郵便報知新聞 1874/1/15: 2;1/23: 2)
一体女子というものは髪形から着物までも美しく総てやさしいのが宜しいとおもいますに、此の節学校へかよう女生徒を見ますに、袴をはいて誠に醜くあらあらしい姿をいたすのはどういうものでありましょう。
(「投書」読売新聞 1875/10/8: 2)

この投書とほぼおなじとき1875(明治8)年に、東京府下中学校の教師15人が、府庁によび出されて昇任の言いわたしがあった際、ひとりの女教師が紋付に袴をはいて出席したのを咎められた。女性の袴は礼ではない、という理由だった。これを伝えた記事は、「これで女の袴も少なくなりましょう」と結んでいる(読売新聞 1875/12/27: 2)。むしろこの記事によって、この時代、女性の袴がそうめずらしくはなかったことがうかがえる。

1880年代に入っても、女性の袴を制止しようとする力があった。1883(明治16)年には、全国の布知事県令にあてて、文部省から通牒が出されている。

習風の奇異浮華に走る事を戒むるは教育上忽(ゆるが)せにすべからざる儀に候処、地方に依りては女教員および女生徒の中には袴を着け靴を穿ち、其の他異様の装いをなすもの往々之ある様に見受け候凡そ服飾等は務めて習慣に従い質素を旨と敷居浮華に流れざる様お取計らい相成り度(……)。

跡見花渓の跡見女学校の紫の袴、華族女学校の海老茶の袴―袴は明治時代の女学生のシンボルのように考えられているが、少なくともその最初は順風満帆というわけではなかったようだ。女学生の袴がいつからとは、下田も跡見もはっきりとその年までは言っていないが、一般には1889(明治22)年の憲法発布の年から、といわれている。

女子医専の創始者・吉岡弥生(1871~1959)が1895(明治28)年に山口県で開業したとき、女性職員すべてに袴をはかせたところ、あそこは耶蘇だと噂された、ということが彼女の回想のなかにある。ただしこの例は女学生ではない。その数年後の1901(明治34)年、明治天皇の東北行幸の際、宮城県内務部は各小学校に対し、車駕奉迎に関する注意を発しているが、そのなかに、「着袴は女子の礼装にあらざるを以て禁止すべし」の一項が含まれていて、悶着が生じた。じつはこの時期、女学校生徒はなるべく袴を着けるようにという内諭さえあったのだ。結局、着袴は礼装に非ず、としたのは誤りだったことはわかったが、袴の制止はなんらかの理由があったことは事実だった、というふしぎな結論になっている(婦女新聞 1901/11/11: 1)。

関係があるかどうかはわからないが、明治天皇は個人的には、女の袴を嫌っていた、と伝えられている。

内諭の影響力はおそらく小さくなかったろう。1900年代(ほぼ明治30年代)の女学生の袴、とりわけ海老茶系統の色の袴は、加速度的に全国に普及した。1902(明治35)年には、「女生徒の袴を穿くことは、いよいよ一般の流行となりて、益々其の便利と体裁の好きを感ずるにつけ、いまは片山里や遠田舎までも行渡りて、袴は是非必要のものとなりたる有様(……)」(「流行欄―女生徒の袴」【流行】(流行社) 1902/5月)という状況になっている。

たまたま、1904、1905(明治37、38)年以後、花月巻から発展した束髪の、前髪を突きだすことが流行しはじめた。こうして廂髪と海老茶袴の女学生が、日露戦争後にほぼ全国にゆきわたった。

女の袴はべつに女学生の専用というわけではない。電話交換手であるとか、数は少なかったが官庁や企業の女性雇員も、たいていは海老茶色の袴をはいて通勤していたから、かんたんには区別がつかなかった。

女袴の用途は日増しに多く、只に学生のみならず、諸官署、病院、各工場等より、其の他種々の方面に流行しつつあれば、婦人たるもの宜しく研究して、自身にて裁縫の出来るよう勉められよ。
(栗原秀子『和洋裁縫独まなび』序文 1909)
近頃、海老茶袴の流行は驚くべきものだ、ぼくが二三日前横須賀のある町を通ると、海老茶袴に束髪姿で、眼鏡をかけた女学生風の飴売が来た。
(「投書」読売新聞 1901/8/4: 4)

女学生の袴がひとつのファッションのようになっていても、女性の袴に白い眼を向けているひとはいた。袴が、女性の身のこなしの女らしさを奪う、という古い理由のほかに、帯の美しさが失われるのを惜しむ声もあった。その呟きは女学生自身のなかにもあるという。

ある女子教育家が、近頃女学生が外出の際、海老茶袴を脱いで、帯を締めて行きたがる傾きがあると云った。其の理由は、至って簡単、つまり海老茶なる制服(ユニフォーム)的なるに飽きはてて、日本婦人が美とする帯を締めたいと思う様になったのであろう。
(「当世流行雑話」【時好】1906/2月)

たしかにそれもいえるだろうが、この資料は三井呉服店の宣伝カタログだから、多少割り引く必要がある。

女学生のはく袴は、最初のうちは襠の高い、腰板もついた男袴と変わりないものだった。しかしやがて襠も低くなり、最後には襠なしの行灯袴となった。長い紐のついた、一種のスカートといえるかもしれない。袴の丈はそのときそのときで一定しないが、概して関西では丈が短く、口の悪いひとは箸袋などといっている。とりわけ女学生たちはひどく高いところで紐を結ぶ傾向があった。これは帯の位置が高くなったのと関係があるだろう。

素材には舶来のカシミヤがなんといってもいちばんだった。しかし大部分の女学生は、もっと実用的なセルを愛用していたようだ。

(大丸 弘)