近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 434
タイトル 襲ね
解説

1884(明治17)年に蔵前の古い米屋の娘にうまれた小説家の田村俊子は、亡くなる5年ほど前の1938(昭和13)年に、「三枚襲ね」というエッセイを書いた。明治大正の東京下町の風習を肌で経験した、というだけでなく、彼女が1918(大正7)年から18年間アメリカに在住し、ひさしぶりに見た昭和10年代の日本の変わり様を、おどろきの眼で観察した、という点で、この短文は貴重な記録といえる。以下、この作品にそって、襲(かさね)衣裳の半世紀をたどろう。

私の娘時代には、元日の年始着は必ず三枚襲ねときまっていた。(……)髪は定まって大晦日に結いあげる。下町生まれの下町育ちであった私は、年ごろになってからは女学校が休暇になるともう島田で、春は高島田に結わせられたものである。(……)頭から上だけの装飾が済むと、重い重い三枚襲ねを着せられるのである。フキは一寸か一寸二分の厚さ、上着の紋付には綿は入っていなかったと思う。下着はわざと比翼にしないで、無双の二枚、それには真綿が入っていたのかと思う。これに繻珍とか厚板とか兎に角地厚な重い帯を結んで、それで支度が出来上がる。三枚の褄を揃えて、其のおはしょりをして貰うときの窮屈さ。(……)島田が又重くて、おまけに履物は黒塗りの高い木履を穿く。元日一日はそんな服装で年始客の相手である。友だちが来ると羽根を突くので、服装が着崩れて又小言である。
(佐藤(田村)俊子「三枚襲ね」【新装】1938/1月)

きものを何枚も重ね着するのは豊かさのしるしだ。あの十二単を思いだせば納得できるだろう。江戸時代後期に、正装としての三枚襲がかたまったらしい。また三枚小袖ともいう。江戸時代には小袖といえば絹物の綿入を意味した。衣服のなかではいちばんねうちのあるものだ。婚礼をのぞけば、正月がいちばんはなやかで重い行事だったため、こんな重装備の礼装が定着したのだろう。芸者のお座敷着は、正月にかぎらず、3月いっぱい三枚襲だった。田村は、お年始客に会わない2日めからは、軽い二枚着に着替えて、楽しい遊びに夜をふかす、と書いている。しかしからだが弱いからといって、寒いあいだはふだん着でも、真綿の入った三枚襲を着せられている娘もあった。帯にも綿が入り、ちょっとした外出ではおる綿入羽織は、長い袂にまで綿が入っている――。

三枚襲は内側の2枚を、間着、下着、とよぶ。その下に長襦袢等を着るのだから、下着といってもアンダーウエアとは意味がちがう。礼装では内側の2枚は白無垢になる。

そんな時代が過ぎて十四五年の後、私が日本を去る頃(1918)には、いつとなく三枚着と云うような野暮な服装は見られなくなった。それでも二枚は必ず襲ねた。フキも五分と云う程の厚ささえ見られなくなって、余程の年の若い者でなければ大概は二分ぐらいになった。通常服以外は二枚の下着には無論真綿が入っている。
(佐藤(田村)俊子 同上)

三枚襲を着なくなったのは、1900年代(ほぼ明治30年代)の長い期間でのことだろう。1908(明治41)年の新聞は、「三枚襲を着るひとが減り二枚襲が多くなる。下町風が山の手にも及んだという」(→年表〈現況〉1908年5月 「三枚襲から二枚襲へ」東京日日新聞 1908/5/10: 3)と報じている。もしこの記事が信じられるなら、古風なものはすべて下町に残る、というわけでもなかったらしい。2年前の1906(明治39)年、芸者の春着(正月着)はこれまで三枚襲だったのを今年から二枚襲としたため、仕立屋には響くだろうと、文芸倶楽部の近藤焦雨が書いていて(→年表〈現況〉1906年1月 「春着のいろいろ」【文芸倶楽部】1906/1月)、花柳界のきまりとしてそうなったような口ぶりなので、これは一種の事件だ。

1910年代に入るまでに、つまり明治末には、三枚襲は婚礼衣裳などに用いられるだけになっていた。

長い外国生活から帰って来て、もっとも私を驚かせたのは、婦人の服飾がすっかり簡易化されていた事で、二枚襲ねと云うのさえも見られなくなり、夏以外の季節は、春秋冬を通して袷の一枚着になっている。何時のころからこうした慣わしになったものであろうか。(……)名古屋帯が喜ばれるのも経済的と云うよりは、結びよいとか、軽いとか云う活動に便宜な点が時代に適応しているのであろう。
(佐藤(田村)俊子 同上)

二枚襲というと綿入小袖の重ねだが、1910年代、1920年代(ほぼ大正~昭和初め)は、綿入きもの自体が嫌われてきた。そのため綿を入れても袖口や裾だけの綿、つまり口綿にするとか、重ねているように見せかけただけの、比翼仕立てにするとかの技法が、さかんにつかわれた。

また、襲は襟の重なり様が非常に目立つものであって――本来それが目的の襲なのだから――それを生かすための着つけ、またそれ以前の、3枚のきものの大きさの微妙な違いなど、縫製上のこまかい心遣いが必要だ、ということは、仕立代もばかにならない。そんなことをしてまでの効果が、襲衣裳にあるとは考えにくくなったのだろう。

第二次大戦後の1960(昭和35)年頃に、世の一部に、二枚襲を復活させようという動きがあった。それに対してつぎのような批判があった。

美しさは必要から生まれる。冬があたたかくなってきてやっと一枚きりの身軽さになれたのに、なにを好んでもう一度、あの重たさの中に自分を閉じ込めようとするのであろうか。それはようやく身につき始めた民主主義を振り捨てて、封建の世に帰ろうとする気持ちに似ているように思える。一枚だけの襟元が淋しいのであったら、アクセサリーとして襟だけもう一枚かさねるといい。そうして二枚重ねた襟の下に、白い二重の半襟をきちっとあわせて、ブローチで留める。露の雫のエメラルドでも、一粒のブローチが、その下の豊かな胸を守って、清潔な青春の誇りを高らかに奏でるであろう。
(森田たま「特集/たのしい新春のきもの―春の装い」【装苑】1961/1月)
(大丸 弘)